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パジェロとダカールラリー — 12回勝った競技車と、24年97万km走った市販車

公開: 2026-08-07 / 更新: 2026-08-07

クルマを知るのイメージイラスト

1983年、アフリカを縦断するラリーに、発売から1年もたっていない日本製の四輪駆動車が出場しました。結果は市販車無改造クラスの優勝。三菱自動車はこれを「デビュー・ウィン」と書いています。クルマの名前はパジェロといいました。

そこから2007年まで、パジェロはこのラリーで通算12回の総合優勝を挙げます。うち7回は連続でした。数字だけ見れば、わかりやすい成功物語です。

ただ、三菱自動車が公開している資料を年代順に読んでいくと、勝った回数とは別の線が浮かんできます。競技で勝つクルマと、店で売るクルマの距離の話です。この記事では、三菱自動車の「車の歴史」「会社の歴史」、ブランドの技術ページ、そして同社が公開しているオーナー取材記事の原文と数字だけを使って、パジェロという名前が39年かけて何を証明しようとしたのかを追いかけます。

作れるのに、売りに行けなかった

1982年5月にパジェロが発売されるまで、三菱に四輪駆動車がなかったわけではありません。ジープを作っていました。ただし、自社で設計したクルマではありませんでした。三菱自動車の「車の歴史」は、パジェロが生まれた事情をこう説明しています。

本格的な四輪駆動車の市場において、『ジープ』はライセンス契約により輸出できず、海外市場ではライバル車がシェアを拡大していました。一方、国内市場でも個人ユーザーのレジャーユースなど今後の四輪駆動車の需要増加が見込まれ、三菱自動車独自の四輪駆動車の開発機運が高まっていました。その結果、誕生したのが乗用車感覚あふれる本格4WD車『パジェロ』です。

四輪駆動車を量産する技術と工場は、すでに手元にありました。足りなかったのは自分の名前で世界に出せる設計のほうです。ライセンス生産は、作る力は与えてくれても、売り先を制限します。海外でシェアを伸ばしていく他社を、作れるのに見ているしかない — そこからの出発でした。

作る場所そのものは、ジープからそのまま引き継がれています。三菱自動車の「会社の歴史」によれば、ジープの生産は東洋工機株式会社に全面委託されており、同社は「1976年(昭和51年)9月に工場を岐阜県坂祝町へ移転、1982年(昭和57年)2月からは「ジープ」を源流とする「パジェロ」の一貫生産も行うようになり、1995年(平成7年)7月には社名を「パジェロ製造株式会社」と改めました。」と記録されています。会社の名前がクルマの名前に置き換わったわけです。

車名の由来も残っています。「チリ・アルゼンチン地方南部パタゴニア地方に生息する野生の猫である“パジェロキャット”から車名を採ったもので、“野性味と美しさ”を調和させる願いが込められています。」1979年の東京モーターショーに角目2灯の『パジェロⅡ』が出品されて好評を得たのち、1982年5月にメタルトップとキャンパストップの2種類のボディタイプで発売されました。

発売の翌年、無改造のまま砂漠へ

そして1983年、パジェロはパリ・ダカールラリーに出ます。発売の翌年です。三菱の初代パジェロの節には、こう書かれています。

世界一過酷なラリーとして知られるパリ・ダカールラリーには1983年市販車無改造クラスでデビュー・ウィンを果たし、1985年には初の総合優勝。以降も12回に亘って総合優勝に輝きました。

ここで注目したいのは、最初の勝ちが総合優勝ではなく市販車無改造クラスの優勝だったことです。三菱の年表を1983年から順に並べると、初期の記載は次のようになっています。

  • 1983年 — ダカールラリーで『パジェロ』が初出場し、市販車無改造クラス優勝
  • 1984年 — 総合3位、市販車無改造クラス優勝
  • 1985年 — 初の総合優勝
  • 1986年 — 総合3位、市販車無改造クラス優勝
  • 1987年 — 総合3位(篠塚建次郎、日本人初のトップ3入り)
  • 1988年 — 総合2位
  • 1989年 — 総合3位

1983年・1984年・1986年の3回、三菱は「市販車無改造クラス優勝」を年表に残しました。総合順位で上に立つ前に、まず手を加えていない市販車として完走し、そのクラスで勝ったことを記録している。発売2年目の四輪駆動車が世界に向けてできる主張として、これは理にかなっています。速さの主張ではなく、店で買えるものがそのまま砂漠を走り切ったという主張だからです。

ちなみに、この時期に一台だけ変わった経歴のパジェロがいます。三菱が四輪駆動の起点として挙げている試作車PX33(1935年に陸軍自動車学校から「野戦指揮官用全輪起動乗用車」の試作依頼を受け、第二次試作車が1936年に完成)について、「車の歴史」は「当時の実車はすでに残っておりませんが、1988年にフランスのソノート社が『パジェロ』を使ってレプリカ車を作成、89年パリ・ダカールラリーに参戦し、完走を果たしました。」と書いています。半世紀前の試作車の姿を借りたパジェロが、同じラリーを完走していたことになります。

総合優勝12回、うち7回は連続

1985年の初優勝のあと、パジェロは総合順位でも常連になっていきます。三菱の年表から総合優勝の年を拾うと、1985年、1992年、1993年、1997年、1998年、そして2001年から2007年までの7年連続。合計12回です。同社自身も4代目パジェロの節で、次のようにまとめています。

初代『パジェロ』発売翌年の1983年(昭和58年)から参戦し、7大会連続を含む通算12回の総合優勝に輝いたダカールラリーで培った『パジェロ』の4WD技術やSUVづくりのノウハウは、今も当社の製品に活かされています。

途中には日本人ドライバーの記録もあります。1987年に篠塚建次郎が総合3位に入り、三菱は「日本人初のトップ3入り」と記載。1997年には同じ篠塚建次郎が総合優勝し、こちらは「日本人初のダカールラリー総合優勝」と書かれています。2002年と2003年は増岡浩が連覇しました。

ここまでは、順調に強くなっていく話です。ところが同じ時期の年表には、少し性格の違う出来事が混ざっています。

勝ち続けるために、市販車のほうを作った

1991年1月、パジェロは9年ぶりにフルモデルチェンジして2代目になります。この世代の目玉について、三菱はこう書いています。「機能面での特長は、世界初のスーパーセレクト4WDの採用で、フルタイムとパートタイムの両方式の長所をあわせ持ち、走行中でも100km/h以下なら2WD/4WDの切り替えを可能にしました。」舗装路では燃費と扱いやすさ、悪路では確実な駆動 — 相反する2つを1台で切り替える機構です。

そして1997年、この2代目に一台の派生モデルが加わります。

さらに、同年9月には、ダカールラリーのレギュレーション変更に対応する『パジェロ エボリューション』を投入。高性能エンジン3.5L MIVECを搭載し、ボディの高剛性化と軽量化、オーバーフェンダーによる拡幅と4輪独立サスペンションの採用により、オフロードでの走破性とオンロードでの快適性を両立させました。

順序を確かめておきます。ふつう、競技車は市販車をもとに作られます。売っているクルマがあって、それを競技の規則に合わせて改造する。ところがパジェロ エボリューションは、その逆です。ラリーの規則が変わったので、それに対応するために市販車のラインアップが1台増えた。1983年に市販車を無改造のまま走らせて勝った会社が、14年後には勝つための市販車を作る側に回っていたことになります。

どんな規則変更だったのかは、三菱の公開資料には書かれていないため、ここでは踏み込みません。ただ、この一文が意味していることははっきりしています。競技で勝ち続けるほど、勝つためのクルマは普通の市販車から遠ざかっていく。その距離を埋めるために、わざわざ特別な市販車を作らなければならなくなった、ということです。

7連覇の隣を走っていた、まだ売っていないミニバン

では、市販車が壊れないことは、どこで証明されていたのか。三菱の資料の中で、この問いにいちばん直接答えているのは、優勝したラリーカーの節ではありません。ミニバンの節です。

2007年、パジェロは7連覇の最後の1勝を挙げました。その同じ大会に、もう1台の三菱車がいました。競技には出ていません。裏方です。

『デリカD:5』発売直前の2007年ダカールラリーに三菱自動車チームのサポートカーとして、スタッフと各種機材を運搬する『デリカD:5』を投入。開発中の市販仕様をベースとしてエンジン、トランスミッション、電子制御4WD等、ハードそのものには手を加えず、ダカールラリーに適した若干の改造を施し、約7,000kmを大きなトラブルなく、完全走破。オールラウンドな走破性の高さを証明しました。

読みどころは「ハードそのものには手を加えず」の部分です。エンジンもトランスミッションも電子制御4WDも、これから店頭に並ぶ仕様のまま。しかも、まだ発売前でした。人と機材を積んで、約7,000kmを走り切っています。

競技車のほうは、この時点ですでに専用に作り込まれたクルマです。それが優勝しても、読者が買えるクルマの耐久性を直接には保証しません。一方でサポートカーは、荷物を積んで長距離を移動するという、ミニバンとしての普通の仕事をラリーの現場でやっただけです。それでも大きなトラブルなく走り切った。三菱がこのエピソードをデリカD:5の紹介文に残しているのは、そのほうが買う人にとって意味のある証明だと考えたからでしょう。

ちなみにデリカD:5の骨格は「リブボーンフレーム」と名付けられた、哺乳類の肋骨を思わせる環状骨格構造で、三菱はこれを「ボディ剛性、耐久性の向上と高い安全性を確保」と説明しています。派手な機構の話ではなく、骨組みの話でした。

24年97万km — 買った人の側の記録

もうひとつ、三菱が公開している資料に、市販車の側からの記録があります。同社の特集企画「三菱10年10万kmストーリー」の第16話「本籍きのくに、現住所パジェロ」です。

登場するのは、和歌山県の山中にある「きのくに子どもの村学園」の学園長・堀真一郎さん。記事によれば、堀さんは1台のパジェロで24年間に97万kmを走っています

買ったのは1988年。学園の開校準備を始めた年でした。理由は実務的です。

人と荷物をたくさん積めて、山の天候とか路面状況にも左右されない4輪駆動ということで買い替えました。ちょうど、パリ・ダカールラリーでパジェロが3位に入賞したというニュースを聞いたのも憶えていますね

ラリーの結果が、買う理由の一部として本人の口から出てきています。三菱が砂漠でやっていたことと、和歌山の山道で必要とされたことが、ここで一度つながります。ただし、これは堀さんの記憶として語られたもので、記事の中で年は特定されていません。

走行距離の伸び方も普通ではありません。学園の開校直前の1年間で4万5,000km。開校後も、和歌山を拠点に福井・山梨・北九州の学校を毎週まわる生活が続きます。記事によれば、月曜にフェリーで九州へ向かい、火曜は福井、一泊して山梨、また一泊して金曜に和歌山へ戻る。「本籍きのくに、現住所パジェロ」というのは、その生活を本人が言い表した冗談でした。

肝心の壊れ方については、記事はこう書いています。

ダイナモやオートマチックトランスミッション、サビが出始めてきたボンネットフードやフロントフェンダーなどは交換しても、路上で立ち往生してしまうような故障には遭ったことはなかった。

ただし、これで終わりではありません。同じ記事は、後半でこう明かしています。

実は、97万kmパジェロは96万kmでエンジンを交換している。路上でエンジンが停まり、再始動しなくなってしまったのだ。

96万kmでエンジンは止まりました。ディーラーでは代わりのエンジンが見つからず、堀さん自身が手を尽くして探し出し、和歌山のディーラーに送って載せ替えたそうです。無故障の伝説ではなく、96万kmまでは止まらなかったという記録と読むのが正確でしょう。左フロントフェンダーのサビには苔が生え、シート表皮はひび割れている。そういう状態まで含めて、三菱は自社サイトにこの記事を載せています。

堀さんの言葉は、記事の最後にあります。「クルマがパジェロだったから良かった。パジェロだったから、学園設立を十分に助けてくれたのだと思います」。ラリーの表彰台とは無関係な場所で、四輪駆動車が果たした役割の記録です。

幕の下ろし方

競技のほうは、7連覇の直後に終わります。「会社の歴史」のラリーアート(1984年設立のモータースポーツ関連会社)の項に、その経緯が残っています。

設立以来、多くの皆様に支えられながらモータースポーツ関連の諸活動を行っておりましたが、当社が2005年(平成17年)12月にWRC(FIA世界ラリー選手権)のワークス活動休止を発表し、2009年(平成21年)2月にダカールラリーのワークス活動を終了したこともあり、2010年(平成22年)3月末をもって業務を縮小、ラリーアート商品販売を除くモータースポーツユーザー支援全般等の業務・運営を廃止しました。

2009年2月、ダカールラリーのワークス活動終了。三菱の「車の歴史」の年表でも、ダカールの記載は2007年の総合優勝が最後です。

クルマのほうは、もう少し長く続きました。ただし終わりは来ます。

2019年をもって国内販売向け『パジェロ』の生産を終了。国内と同じブランド『パジェロ』(一部地域では『モンテロ』『ショーグン』)として世界170以上の国と地域に輸出されていた海外向け車両も2021年(令和3年)に生産を終了したことによって、1982年(昭和57年)に初代が誕生して以来、約300万台を生産してきた『パジェロ』は、39年の歴史に幕を下ろしました。

39年、約300万台、170以上の国と地域。冒頭の「ライセンス契約により輸出できず」から始まった話は、ここで一周します。自分の名前で世界に出るために作ったクルマは、170以上の国と地域まで届いたわけです。同じ2021年、「会社の歴史」には「パジェロ製造株式会社の生産事業を終了し、工場を閉鎖」と記されています。ジープの委託先だった岐阜の工場も、ここで役目を終えました。

北海道に残った坂の名前

では、25年ぶんのラリーは何を残したのか。三菱の資料をたどると、答えは意外な場所にあります。北海道です。

1996年、三菱は北海道河東郡音更町近郊に十勝研究所を建設しました。「会社の歴史」によれば、総工費約200億円、敷地は約1,000ヘクタール。全長約10kmの長楕円形の高速周回路は最高速度300km/h(国内最高値)までの高速走行試験を可能とし、250km/hからの高速制動試験路、全長3kmのクロスカントリー路、寒冷地試験路などを併設した施設です。

そして2023年、この十勝研究所の中に、オフロードのテストコース「TOKACHI Adventure Trail」が開設されます。1997年から2005年まで営業していた同社直営の4WDランド「十勝四駆ランド」の設備とコースをリノベーションしたもので、本格的4WDコースは全長3km、高低差約40m。その説明文に、こんな一節があります。

三菱車の強みである四輪制御技術や耐久信頼性技術をさらに鍛え上げるためにもコースには車体を傾けながら走行するキャンパーや、モーグル、急勾配での走行ができるダカール坂と呼ばれるセクション等、当社車両の様々な性能を確認できる障害が複数造られています。

ダカール坂。競技からの撤退から14年たった2023年に作られたコースの中に、そのラリーの名前が付いた急勾配が用意されています。ラリーは競技として終わり、車名も生産を終えましたが、名前は社内のテストコースの地名として残り、今も市販車を鍛えるために使われているということです。

三菱自動車が耐久信頼性の技術ページに書いている一文が、この話の締めにちょうど合います。

お客様には安心して好きな場所に出かけてほしい、お客様の冒険心をかきたてるクルマを提供したいという想いがあります。『どんな冒険からも必ず無事に帰ることができる』が大きなテーマであり、私たちの使命だと考えています。

同じページは、ラリーへの参戦を「三菱自動車は、古くから市販車をベースとしたラリーに参戦してきました。」と書き出し、パリ・ダカールラリーでの7連覇、WRCでの活躍に続けて「近年ではアジアクロスカントリーラリーへの参戦など挑戦は続きます。モータースポーツで得た技術や知見を市販車にフィードバックし、耐久信頼性に長けた堅牢なクルマをお客様に提供しています。」と続けています。目的は表彰台ではなく、帰ってこられることだと言っています。

12回の総合優勝は、その主張を世界に届けるための手段でした。ただ、主張そのものを引き受けたのは、ラリーカーではありません。まだ発売前のまま7,000kmを走ったサポートカーであり、和歌山の山道から毎週九州まで往復して96万kmまで止まらなかった1台のディーゼルでした。勝ったのは競技車で、証明したのは市販車だった、と読むこともできます。

まとめ

  • パジェロが生まれた理由は、三菱の記載では「『ジープ』はライセンス契約により輸出できず、海外市場ではライバル車がシェアを拡大していました。」という状況にあった。作る力はあったが、自分の名前で世界に出せる設計がなかった
  • 1983年、発売の翌年にパリ・ダカールラリーへ初出場して市販車無改造クラスで優勝(三菱の記載では「デビュー・ウィン」)。1984年・1986年にも同クラスで優勝しており、初期に主張していたのは速さではなく、手を加えていない市販車が完走することだった
  • 1985年に初の総合優勝。三菱の年表から数えると総合優勝は1985・1992・1993・1997・1998年と2001〜2007年の通算12回、うち7大会連続。1997年には篠塚建次郎が日本人初の総合優勝、2002・2003年には増岡浩が連覇した
  • 1997年9月、三菱は「ダカールラリーのレギュレーション変更に対応する『パジェロ エボリューション』」を発売した。市販車を競技用に改造するのではなく、競技の規則に合わせて市販車のほうを作った形になっている
  • 7連覇最後の年である2007年のダカールラリーには、発売直前のデリカD:5がサポートカーとして参加。「エンジン、トランスミッション、電子制御4WD等、ハードそのものには手を加えず」約7,000kmを大きなトラブルなく完全走破している
  • 三菱の特集記事「三菱10年10万kmストーリー」第16話には、1988年に購入したパジェロで24年97万kmを走った学園長が登場する。購入理由の一つとして本人がパリ・ダカールラリーの結果を挙げている。ただし96万km時点でエンジンが停止して載せ替えており、無故障だったわけではない
  • 2009年2月にダカールラリーのワークス活動を終了。2019年に国内向け、2021年に海外向けの生産が終わり、パジェロは39年・約300万台で幕を下ろした。同じ2021年にパジェロ製造株式会社の工場も閉鎖された
  • 2023年に十勝研究所内へ開設されたオフロードコース「TOKACHI Adventure Trail」には、「ダカール坂」と呼ばれる急勾配のセクションがある。競技も車名も終わったあとに、ラリーの名前がテストコースの地名として残っている

同じ三菱が、駆動力の配分そのものを制御して曲がるクルマを作ってきた流れはAWCとS-AWCの物語にまとめています。四輪駆動車で「変えないもの」を決めた別の会社の選択はジムニーの物語に、悪路を走るための機構が乗用車の安全装備へ広がっていく流れはアイサイトの物語にあります。四輪駆動車を実際に持つと費用がどう変わるかは維持費の内訳ガイド、長く乗る前提で中古を選ぶときの見どころは中古車選びのチェックポイントで整理しました。走行距離が伸びた個体の車検で何にいくらかかるかは車検費用の内訳もあわせてどうぞ。

※本記事の年月日・数値・引用は、三菱自動車工業株式会社が公開している次の資料に基づく2026年8月時点の内容です。パジェロ・デリカD:5の記述と各年のラリー戦績は「三菱自動車の歴史(車の歴史)」、ジープ生産の委託先・ラリーアート・十勝研究所・TOKACHI Adventure Trail・パジェロ製造株式会社に関する記述は「三菱自動車の歴史(会社の歴史)」、耐久信頼性に関する引用はブランドの技術ページ「耐久信頼性技術」、24年97万kmの内容は同社の特集企画「三菱10年10万kmストーリー」第16話「本籍きのくに、現住所パジェロ」によります。「世界一過酷なラリー」「デビュー・ウィン」「世界初のスーパーセレクト4WD」といった表現はいずれも三菱自動車の記載です。総合優勝の回数は同社が「7大会連続を含む通算12回」と記載しており、本記事の年の一覧は同社の年表から抽出したものです。オーナー取材記事の走行距離・状態・発言は取材時点のもので、取材年は記事に明示されていません。生産終了・工場閉鎖の年は同社の記載によります。

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