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触媒なしで排ガス規制を越えたエンジン — ホンダCVCCとマスキー法の物語

公開: 2026-08-05 / 更新: 2026-08-05

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いま走っているガソリン車は、ほぼ例外なく排気管の途中に触媒(キャタライザー)を積んでいます。エンジンから出てきた排出ガスを、あとから化学反応で無害な成分に変える装置です。車検で排出ガス中のCO・HCの濃度を測るのも、突き詰めれば排気がきれいに保たれているかの確認です。エンジンの外側で汚れを処理する — それが半世紀にわたる自動車の標準解でした。

ところが1970年代に、まったく別の答えが規制を先に越えたことがあります。排気管に何も付けず、エンジンの中の燃え方だけで有害成分を減らすという方法です。ホンダのCVCCエンジン。そしてこのエンジンは、越えたあと10年あまりで後継に道を譲りました。何が起きたのかを、ホンダとトヨタが公開している社史、そして米国EPA(環境保護庁)の資料から追いかけてみます。

1970年、世界中が不可能だと言った

発端は米国の法律です。トヨタ自動車75年史は、1970年12月に「マスキー法(1970年大気清浄法)」が成立したと記し、自動車の排出ガスに関する内容を2点にまとめています。「1975年型車からHC、CO(一酸化炭素)を1970年規制の10分の1以下にする。」「1976年型車からNOx(窒素酸化物)を1971年型車平均排出量の10分の1以下にする。」(ホンダ75年史はこの法律を「マスキー法(1970年改正の米国大気浄化法)」と表記しています。以下、社史からの引用ではそれぞれの表記のままにしています)

5年で10分の1です。ホンダ75年史は、この提示に対する業界の反応をこう書いています。「GM・フォード・クライスラーといった米国のビッグスリーを筆頭に、世界中の自動車メーカーは「この規制内容を達成するのは不可能である」と主張したが」、法律はそのまま発効した、と。米国EPAの公開ページは、1970年の大気浄化法によって自動車の排出ガス規制の要件を定める権限が設けられたと記しています。そして同法と国家環境政策法の要求を実施するために「The EPA was created on December 2, 1970」— EPAは1970年12月2日に設立された、とも書かれています。規制を作る側の役所が、規制とほぼ同時に生まれた。それくらい急な話でした。

日本も追随します。トヨタ75年史によれば、1971年7月に環境庁が発足し、1972年8月には中央公害対策審議会に付属する大気部会自動車公害専門委員会が中間答申を提出して、マスキー法に準じた目標値を示しました。1975年度はCO 2.1g/km・HC 0.25g/km・NOx 1.2g/km、1976年度はNOx 0.25g/km。1974年1月に1975年度規制が告示された時点で、状況はこうなっていたと同社史は書いています。「米国では「マスキー法(1970年大気清浄法)」の実施が延期されたため、日本の排出ガス規制が世界一厳しいものとなった。」

触媒でも代替エンジンでもなく、燃焼を変える

ホンダが排出ガスの研究を始めたのは、マスキー法よりずっと前でした。ホンダ75年史によれば、1965年夏、エンジン性能ブロックのリーダーだった八木静夫が、将来の四輪車輸出を見据えて10人規模の大気汚染研究グループを発足させています。翌1966年6月、日本自動車工業会の訪米調査団に八木が加わり、1カ月かけて関連研究所23カ所を回った。帰国後、伊達撛・八木・中川和夫の3人が研究所長の杉浦英男に必要性を報告すると、返事は一言だったと社史は記します。「じゃあ、やろうよ」。約30人でAP(Air Pollution)研=大気汚染対策研究室が発足しました。

当時のホンダは四輪に進出したばかりで、F1参戦も宣言済み。すぐに結果の出ない研究に人を割ける状況ではなかった、とも社史は書いています。それでも始めたAP研は、当時考えられる手をひととおり並べました。ガソリン・ディーゼルの改良、ロータリーやガスタービンといった代替エンジン、酸化触媒や再燃焼装置といった後処理、アルコールや水素といった代替燃料。

ここで方向を決めたのが本田宗一郎です。設計者だった大谷淳示の証言として、社史はこう伝えています。「排出ガス対策で、今あるガソリンエンジンをなくすということは、大変なことだ。自動車会社の生産設備などを全部捨てなくてはならない。そのような対応ができるわけがない。既存エンジンへの規制だから、そのエンジンで達成可能な規制であるべきだ。だからこそ、既存のレシプロエンジンを改造しなきゃだめだ」

技術的な理由も揃っていました。当時の酸化触媒は工場のばい煙向けの構造で、クルマに積むと振動で擦り減ったり焼失したりして耐久性に問題があった。再燃焼装置は濃い混合気を必要とするので燃費が悪くなる。そして指導にあたっていた東京大学の浅沼強教授との議論から、CO・HC・NOxを同時に減らすには燃料を完全燃焼させる希薄燃焼しかないという結論が出ます。ただし当時の技術では到底クリアできると思えなかった、とも社史は正直に書いています。本田の口ぐせが「やらんで、何がわかるか」でした。

混合気を薄くすると、有害成分は減る代わりに火が着きにくくなり、燃え方が不安定になります。加熱・ガス流動の強化・点火エネルギーの増大・多点点火 — 考えられる手を試しても結果は出ませんでした。そこでAP研の幹部は、先行メーカーと同じ土俵を降りることにします。社史が記す当時のアイデアがこれです。「従来のガソリンエンジンでは使われていない、副燃焼室付エンジンで希薄燃焼ができないか」

副燃焼室というのは、主燃焼室の脇に設けた小部屋のことです。ディーゼルの一部では実用化されていたものの、ガソリンエンジンでは粗悪燃料の利用や燃費の改善策として研究されるにとどまっていた、と社史は説明します。そして大気汚染対策としての研究はどこも行っていないため、やってみる価値はある — それが選んだ理由でした。仕組みはこうです。小部屋で確実に点火し、そこで生まれた火炎をトーチノズルから主燃焼室へ噴き出させる。主燃焼室には薄い混合気が入っていて、単独では火が着きにくい。それを、勢いよく噴き込む炎で確実に燃やしきる。点火の確実さと、薄さの両方を成立させる仕掛けです(この仕組みの読み解きは本記事による説明です)。

汎用ディーゼルと、他社のエンジン

開発の入り口は驚くほど素朴でした。試作エンジンの完成を待てない本田が、社内にある汎用エンジンを使えと助言したのです。使われたのはGD90 — V型2気筒479ccの副燃焼室付ディーゼル汎用エンジンでした。副燃焼室に点火プラグとガソリン噴射ノズルを取り付け、圧縮比を8から16まで変えられるように改造して、1969年12月から1970年2月までテスト。結果はおおむね良好で、ガソリンエンジンでの希薄燃焼の可能性が見えました。

1970年1月にはN600を改造した単気筒300ccエンジンが完成。さらに水冷での研究が必要になりますが、当時のホンダには四輪用の水冷エンジンがありません。自作する時間もない。そこで日産自動車の1600ccエンジンなどを使ってテストしています。社史はこれを、他社のエンジンを使ったことでより汎用性のあるデータが取れた副次的効果があった、と振り返っています。1970年12月にはAP研を発展的に解消し、第4・第5研究室として常時100人を超える体制になりました。

そして1971年2月12日、東京・大手町の経団連会館。本田は記者会見でこう発表します。「1975年の排出ガス規制値を満足させるレシプロエンジン開発のめどが立ったので、1973年から商品化する」。まだ研究の途中でした。踏み切った理由を、社史は本田の言葉で伝えています。「君たちに聞いても、もうこれで完成したとはいつまでたっても言うはずがない。それを待っていたのでは会社がつぶれる」。ホンダ流に言う「2階に上げてはしごを外す」やり方だった、と。

名前もこのとき決まりました。Compound(複合・複式)、Vortex(渦流)、Controlled Combustion(調速燃焼)の頭文字を取ってCVCC・複合渦流調速燃焼。燃焼室が主室と副室の2つあるから複合、副室の火炎が主室に噴き出して渦を起こし燃焼速度を速めるから渦流、その速度を適正に制御するから調速燃焼、という説明です。命名の狙いを、伊達はこう語っています。「名前から構造の一部でも分かるようなことがあってはならないと思いましたし、燃料供給方式もまだ決まっていませんでしたので、ユニークでパンチの効いた名前にしようと考えました」。特許出願が終わっていない段階での公表だったからです。

1972年12月、アンナーバーの計測室

1972年10月11日、東京・赤坂プリンスホテルで、ホンダはCVCCの全容を国内外のジャーナリストに公開します。会場は低公害エンジンを印象づけるため青いパネルで飾られました。挙げられた特長は3点です。「従来のレシプロエンジン本体をそのまま使うことができるため、現在の生産設備が生かせる。」「エンジン内部できれいな燃焼をするため、触媒などによる排出ガス浄化装置は不要で、2次公害の恐れがない。」「シリンダーヘッドから上を交換するだけで済むので、他メーカーのエンジンにも応用でき、広く低公害化が図れる。」この時点で出願された特許は230件に及んだ、と社史は記しています。

反響を受けて、EPAからCVCC搭載車の提出要請が来ます。ミシガン州アンナーバーのエミッション・ラボへ3台 — 1万5,000マイル走行車が2台、5万マイル耐久テスト完了車が1台。立ち会いテストは1972年12月7日から14日まで行われ、社史の記述では1975年規制のマスキー法合格第1号となりました。

ここで、この物語でいちばん人間くさい事実が出てきます。テストに使われた車体は、日産自動車のサニーでした。当時のホンダにはCVCCエンジンを積める大きさの車体がなく、やむを得ず開発時から使っていた他社のボディで適合テストを受けたのです。ホンダが世界初のクリアと記すエンジンは、他社のクルマに載って計測室に入りました。

技術を、他社に開いた

ホンダはこの技術を囲い込みませんでした。本田はかねてから公害対策技術は公開する方針を表明しており、CVCCは他社にも公開されます。最初に手を挙げたのはトヨタでした。技術者が研究所を訪れて試乗と説明を受け、1972年12月13日に技術供与の調印。対外交渉の実務責任者だった吉澤幸一郎は、こう語っています。「トヨタが最初というのは、CVCCにとっても、ホンダにとってもプラスが大きかった。トヨタに技術供与をしたと新聞に出たら、すぐに国内や米国メーカーからも引き合いがありましたからね」。その後フォード、クライスラー、いすゞ自動車にも供与されました。ホンダ75年史がこの項の扉に掲げた言葉は「企業の利益のためではなく 社会的責任において成し遂げる」です。

では同じころ、トヨタは何を選んだのか。トヨタ75年史には、こう書かれています。「トヨタは1975年度(昭和50年度)排出ガス規制対策として、触媒方式とともに複合渦流方式を採用することを決定した。」1975年2月に第1弾としてコロナとカリーナの2,000cc車を発売、搭載されたのは従来の18R型エンジン(1,968cc、105馬力)を複合渦流方式に改造した19R型エンジン(1,968cc、80馬力)でした。排出ガス浄化システムの総称はTTC(トヨタ・トータル・クリーン・システム)。なお「複合渦流」はCVCCの日本語名「複合渦流調速燃焼」と同じ語ですが、19R型が供与技術に基づくものかどうかまではトヨタ75年史は明記していません。ここでは、ホンダ側が技術供与の調印を記録し、トヨタ側が複合渦流方式の採用を記録している、という2つの事実を並べておきます。

目を引くのは馬力です。105馬力が80馬力になっています。同じ排気量で、25馬力を規制対応に差し出した。当時の技術者が背負っていた重さが、この2つの数字だけで伝わってきます。1974年9月、衆議院の公害対策並びに環境保全特別委員会で、豊田英二社長はこう陳述しました。「51年(1976年)規制は、50年(1975年)規制のまま、さらに2年間継続されるようお願いいたします。」NOx 0.25g/kmの達成は、当時どうしてもできなかったのです。

触媒が、追いついた

そのNOx 0.25g/kmは、1976年12月に1978年度規制として告示されます。トヨタがそこで実用化したのが三元触媒方式でした。CO・HCに加えてNOxも同時に浄化する触媒ですが、3成分を同時に処理するには吸気混合比を理論空燃比に保つ必要があり、排出ガスの酸素濃度を検出するO2センサーが実用化の要になった、とトヨタ75年史は説明しています。高温の排出ガスにさらされる電極の耐久性が当初は著しく乏しく、豊田中央研究所に素子の物性調査を依頼し、日本電装(現・デンソー)と共同で構造から作り直した。1977年6月、三元触媒方式による1978年度規制適合車としてクラウン2000・マークⅡ2000・新型チェイサーが発売されます。

面白いのは、トヨタが1978年度規制に対して三元触媒方式・TGP燃焼方式・酸化触媒方式の3方式を並行して実用化していることです。そのうちTGP燃焼方式は、希薄燃焼で着火性が悪く燃焼が不安定になる問題に対して、燃焼室の一部に「乱流生成ポット」と呼ぶ副燃焼室を設けて解決したもの。副燃焼室という発想そのものは、このあとも生き続けたわけです。

一方でCVCCは、やがて折り返し点を迎えます。ホンダ75年史の「四輪エンジン60年の進化」の項が、その顛末をきわめて率直に書いています。「しかし、しばらくすると、排出ガスを後処理で浄化する装置(触媒)が急速に進化し、他社も徐々に追い付いてきた。」CVCC自体も進化を続け、1981年11月発売の初代シティには1.2L直4 SOHCのCVCCをベースにしたCOMBAXエンジンが載り、無鉛ガソリン仕様の四輪エンジンとして世界初(ホンダ調べ)の圧縮比10:1を実現しました。それでも、と社史は続けます。「その裏でエンジニアたちは、さらに高まる排出ガス規制にCVCCによる排出ガス浄化性能の向上に限界も感じ始めていた。」CVCCに続くエンジンとして1984年11月に登場したのが、シビックSi/CR-X Siに積まれたZC型1.6L直列4気筒DOHCでした。

燃焼で減らす方式は、規制値が厳しくなるほど不利になります。燃え方をどれだけ丁寧に作り込んでも、減らせる量には上限がある。それに対して触媒は、出てきたものを化学反応で処理するので、素材と制御を良くすればさらに減らせる(この対比は本記事による整理で、社史が説明しているものではありません)。半世紀後の現在、EPAのページは自動車用触媒コンバーターについて「one of the great environmental inventions of all time」— 史上最も偉大な環境発明のひとつと考えられている、と紹介しています。同じページでEPAは、1970年型車と比べて新車の乗用車・SUV・ピックアップの一般的な汚染物質は約99%クリーンになったとも書いています。

それでも、CVCCが取ったもの

では10年で消えた技術は無駄だったのか。数字を見ると、そうではありません。

ひとつはガソリンの種類です。CVCCには触媒が付いていませんでした。触媒は鉛で被毒するため、触媒式のクルマは無鉛ガソリンしか使えません。ところが第1次石油危機(1973年)の影響で、米国では無鉛ガソリンがまだ全米に行き渡っておらず、無鉛専用車のオーナーは扱っているスタンドを探して並ぶ羽目になっていました。ホンダ75年史のシビックの項は、こう書いています。「シビックCVCCは、副燃焼室付きエンジンによって燃焼そのもので排出ガスのクリーン化を達成している。触媒は付いていなかった。つまり、どちらのガソリンでも走ることができたのである。」キャンペーンの文句が「ANY KIND OF GAS(どの種類のガソリンでもどうぞ)」でした。規制対応のために選んだ方式が、そのまま販売の武器になった珍しい例です。

もうひとつは燃費でした。1974年11月、シビックCVCCの1975年モデルをEPAへ持ち込んだときのことを、認定担当だった福井威夫(のちの社長)はこう語っています。「テストが終わり、コンピューターが計算をして、その結果が出てくるまでは、大学の入試発表を待つような気分でした」。審査が終わると検査官が握手を求めてきて、燃費が1番だと伝えられた。福井の受け止めが印象的です。「われわれはエミッションばかりに気を取られていて、燃費のことはまったく考えていなかった。しかし彼ら(EPA)にとっては、エミッションは当たり前で、将来を考えたら燃費だということだったんですね」。シビックCVCCは1978年モデルまで4年連続でEPAの米国燃費1位認定を獲得します。

そして会社そのものです。シビックが開発されたとき、ホンダは四輪事業8年目、生産台数40万台足らずで、撤退が現実味を帯びていたと社史は書いています。1972年は発売から残り5カ月だったため21,000台にとどまりましたが、1973年に8万台、1974年と1975年は2年続けて6万台超。1972年から1974年まで史上初の3年連続でカー・オブ・ザ・イヤー(三栄書房『モーターファン』誌主催)を受賞しました。撤退寸前だった会社が、規制対応の技術で世界に名前を売ったことになります。

最後に、規制そのものへの評価を。豊田英二は後年、著書でこう振り返っています。「排出ガス規制を達成しても、肝心の性能が落ちては何もならない。極端な話、走らなければ排出ガスは出ないから一番きれいだ。」「しかし走らなければもはや自動車ではない。自動車という以上、少なくとも従来の性能を維持しながら、しかも規制数値を達成しなければ意味がない。トヨタは最低の目標をそこに置いた。」そして規制の進め方については、こう述べています。「あの時の規制は今でも乱暴なやり方だったと思っている。たとえていえば、水泳を教えるのにいきなり海に放り込んで、ばしゃばしゃやらせながら泳ぎを覚えさせられたようなものだ。まかり間違えば死んでしまうかもしれない。ただ、あの規制を機に日本の技術は、欧州に比べてとりわけ大きくレベルアップしたように思う。」

不可能だと言われた要求に、ホンダは燃焼で答え、トヨタは触媒と燃焼の両方で答えました。主流になったのは触媒です。けれど現在のエンジンが触媒を積んだうえで、なお燃焼そのものを1サイクルずつ設計し直していることを思えば、CVCCが挑んだ問い — エンジンの中で、どこまできれいに燃やせるか — は消えてはいません。答えの形が変わっただけです。

まとめ

  • 1970年12月に成立したマスキー法は、1975年型車からHC・COを1970年規制の10分の1以下、1976年型車からNOxを1971年型車平均排出量の10分の1以下にすることを求めた(トヨタ75年史の記載)。ホンダ75年史は、ビッグスリーを筆頭に世界中のメーカーが「この規制内容を達成するのは不可能である」と主張したと記している
  • ホンダは触媒でも代替エンジンでもなく、副燃焼室で確実に点火し、その火炎で主燃焼室の薄い混合気を燃やしきる方式を選んだ。狙いは希薄燃焼で、大気汚染対策としての副燃焼室の研究は「どこも行っていない」とホンダ社史は記している
  • 名前のCVCCは Compound・Vortex・Controlled Combustion の頭文字で「複合渦流調速燃焼」。特許の申請が途中だったため、構造が推測できない名前が意図的に選ばれた
  • 1972年12月のEPA立ち会いテストで、ホンダ社史の記載では1975年規制のマスキー法合格第1号に。ただし当時CVCCを積める自社の車体がなく、テストは日産サニーの車体で行われた
  • ホンダは技術を公開し、1972年12月13日にトヨタと技術供与を調印(その後フォード・クライスラー・いすゞにも)。トヨタ75年史は1975年度規制対策として触媒方式とともに複合渦流方式の採用を決めたと記し、18R型105馬力を改造した19R型は80馬力だった
  • 1978年度規制(NOx 0.25g/km)ではトヨタが三元触媒方式・TGP燃焼方式・酸化触媒方式の3方式を実用化。三元触媒の実用化の要はO2センサーで、日本電装(現・デンソー)と共同開発された
  • ホンダ75年史は「排出ガスを後処理で浄化する装置(触媒)が急速に進化し、他社も徐々に追い付いてきた」と書き、CVCCによる浄化性能の向上に限界を感じ始めていたとも書いている。EPAは現在、自動車用触媒コンバーターを史上最も偉大な環境発明のひとつと評している
  • それでもCVCCは、触媒がないゆえに有鉛・無鉛どちらのガソリンでも走れ(「ANY KIND OF GAS」)、EPAの燃費1位を4年連続で獲得。撤退が現実味を帯びていたホンダの四輪事業を軌道に乗せた

この物語の前史 — ホンダがそもそもどうやって四輪に参入したかはT360と四輪進出の物語にあります。CVCCのあとホンダが到達した高回転エンジンの思想はVTECとType Rの物語、そして燃焼そのものを先に設計するという発想が現代でどう形になったかはトヨタ Dynamic Forceの物語で読み解いています。エンジンを燃やす時間そのものを減らす方向へ進んだ答えはハイブリッド3方式の物語日産e-POWERの物語をどうぞ。なお、いま自分のクルマの排出ガスが基準内かを確かめる機会が車検です。費用の内訳は車検費用の内訳ガイドで項目別に整理しています。

※本記事の年月日・数値・引用のうち、CVCCの開発経緯・発表・EPA適合・技術供与・シビックに関する記述は本田技研工業「本田技研工業 75年史」第Ⅲ章第2節の第2項「シビック」・第3項「CVCCエンジン」・第8項「四輪エンジン60年の進化」に基づきます。マスキー法の内容と日本の排出ガス規制の経緯、トヨタの規制対応(複合渦流方式・19R型・TTC・三元触媒方式・TGP燃焼方式・O2センサー)および豊田英二の発言は、トヨタ自動車「トヨタ自動車75年史」第2部第2章第3節「排出ガス規制への対応」に基づきます(豊田英二の回想は同社史が『決断―私の履歴書』から引用しているものです)。EPAの設立日・触媒コンバーターの評価・1970年型車比の改善率は米国環境保護庁(EPA)の公開ページ "Evolution of the Clean Air Act" および "Accomplishments and Successes of Reducing Air Pollution from Transportation in the United States" によります。「マスキー法合格第1号」「世界初の圧縮比10:1」等の初物表記は各社史の記載によるものです。馬力は当時の各社史の表記をそのまま用いており、現在の測定方法による数値とは前提が異なります。トヨタの19R型エンジンがホンダからの供与技術に基づくものかどうかは、両社史のいずれにも明記がないため本記事では判断していません。副燃焼室の仕組みの読み解き、および「燃焼で減らす方式」と「触媒で処理する方式」を対比した整理は本記事による説明上のもので、各社の公式資料がこの形で説明しているわけではありません。いずれも2026年8月時点で公開されている内容に基づきます。

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