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「ないものは自分でつくる」— ホンダ安全技術史。エアバッグに12年、歩行者ダミーも衝突実験施設も自前でつくった

公開: 2026-08-18 / 更新: 2026-08-18

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1970年、アメリカで、装着動作が不要な受動拘束装置(パッシブベルトやエアバッグなど)を義務づける法律の検討が始まりました。シートベルトの装着率が低いなら、締める動作がいらない仕組みを義務にしよう、という発想です。各メーカーはいっせいにエアバッグの研究に着手します。ところが1981年、その法制化は見送られました。義務でなくなった技術に投資を続ける理由はありません。多くのメーカーが研究から撤退しました。

ホンダは続けました。そして1987年9月、レジェンドに日本初のSRSエアバッグシステム(運転席用)を搭載します。開発を本格的に始めてから、12年が過ぎていました。

ホンダの安全技術の歴史には、この形の話が何度も出てきます。歩行者を守る車をつくろうとしたら、歩行者用の試験ダミーが世の中に存在しなかった。だからダミーから開発した。衝突実験をしたかったら、国内唯一の施設が数カ月先まで埋まっていた。だから実験施設を建てた。同社は自らこれを「規制を基準とせず」「ないものは自分でつくる」という言葉で説明しています。この記事では、本田技研工業が公開している社史「本田技研工業 75年史」の安全技術の章から、その考え方を読み解きます。

先に結論

  • エアバッグは、法規がないまま1975年に始め、搭載まで12年かかった技術だった。途中の1981年に米国の法制化が見送られて各社が撤退した後も、ホンダは研究を続けて1987年にレジェンドへ搭載した
  • 歩行者保護の研究では、試験用の歩行者ダミーが存在しなかったため、ダミーそのものから開発した(1998年のPOLAR)
  • 1990年代、衝突安全の基準は日米と欧州で逆方向を向いていた。車体を柔らかくする方が有利な試験と、固める方が有利な試験である
  • 衝突実験施設が混んでいて開発が待たされたため、柱が1本もない4万平方メートルの屋内実験施設を自前で建てた(2000年・67号棟)
  • いま多くの車に付いている衝突軽減ブレーキの出発点は、1971年のレーダー研究にさかのぼる

本記事の「世界初」「日本初」「国産車初」は、出典元の社史に「本文中の「世界初」「日本初」「国産車初」はホンダ調べ」と注記されているとおり、同社の調査に基づく表現です。

始まりは技術ではなく、責任だった

社史が安全技術の章の冒頭に置いているのは、装置の話ではありません。1969年の新入社員研修会での、創業者・本田宗一郎の講話です。

われわれは交通機関を扱っているかぎり、責任というものを絶対にもってもらいたい。責任のもてないような人は、すぐ辞めてもらいたい

社史によれば、当時の日本では自動車メーカーが自ら安全運転の普及に取り組む機運は、現在ほど高まっていませんでした。その年、専務取締役だった西田通弘は「自動車メーカーの社会的責任」を社報で明言します。翌1970年にはお客様に定期点検を呼びかけるキャンペーンを実施し、同じ年の10月には「安全運転普及本部」を設立しました。自動車メーカーが安全運転を普及させること自体、当時の日本では例のないことだったと社史は書いています。1974年には、交通社会のあり方を学際的に議論する場として国際交通安全学会(IATSS)の設立にも至ります。

技術の側では、1971年5月に米国運輸省が提唱する実験安全車(ESV)計画へ準参加し、1974年末には試作車ホンダESVを発表しました。さらにさかのぼると、四輪車市場に進出して2年目の1964年、S600に3点式シートベルトを設定しています(社史はこれを国産車初・日本初と記載しています)。

この姿勢を、後に専務を務めた萩野道義はこう語ったと社史は伝えています。

法規を満たすことは、やらなきゃ売れない以上誰だってやる。法律をリードし、安全をリードしてこそ、世の中のためになる

エアバッグ — 法規のないまま始めて、搭載まで12年

ホンダが四輪車用エアバッグシステムの独自開発を本格的に始めたのは1975年。社史は、その時点で法規などまったくなかったと書いています。

開発の進め方も独特でした。社史が「併行異質自由競争主義」と呼ぶやり方で、外気吸い込み式と全ガス式という2つの方式を社内で競わせています。信頼性を徹底的に高めるために多大な時間と労力を要する、手間のかかる研究でした。

冒頭で触れた1981年の法制化見送りで、多くのメーカーが研究から撤退します。ホンダのエアバッグ研究を担当していた第6研究室は、困難な研究を長年続けていることから社内で「猫マタギの6研」と言われ、見向きもされない存在になっていたと社史は率直に書いています。成果が出ない期間の社内の評価まで、自社の社史に残しているわけです。

それでも続いたのは、続けると決めた人がいたからでした。当時の社長・久米是志の言葉が残っています。

たとえエアバッグが世の中に受け入れられなくても、信頼性技術はホンダに残る

1987年9月、レジェンドに日本初のSRSエアバッグシステムが搭載されます。エアバッグの技術はその後二輪車にも渡り、1990年に研究着手、2007年には世界初の量産二輪車用エアバッグを搭載したゴールドウイングが発売されました。

同じ時期のホンダは、1982年に国産車初の4輪アンチロックブレーキ(4W A.L.B.)をプレリュードに搭載しています。社史によれば、その技術の原型は1970年代に発表したESV試作車にありました。実験車のためにつくった技術が、年月をかけて市販車へ降りてくるという流れです。

歩行者を守ろうとしたら、ダミーが存在しなかった

1988年、ホンダは歩行者保護研究を本格的にスタートします。事故実態を分析したところ、次のことが分かったと社史は書いています。

  • 死亡事故に至る傷害部位は頭顔部が63%と圧倒的に高い
  • 加害部位はボンネット・フェンダー・ダッシュボードアッパーが全体の80%を占める

ならば車体前部による頭部保護を最優先すべきだ、という結論になります。ところが、そのためには頭部が車体に衝突する位置と速度を明らかにする必要がありました。当時は歩行者ダミーなどなく、乗員用ダミーの改良版でテストを行っていましたが、傷害メカニズムを解析すると、それまでのデータとの乖離が判明します。

歩行者保護は、ダミー人形をつくるところから始めなければならない

ここから、人体データを用いたシミュレーションダミーの開発が始まります。楕円の剛体を関節モデルでつないだ単純なモデルから出発し、関節特性を人体に近づけていくことで挙動を再現。その知見を実体ダミーに反映し、脚部への変形部材の適用、脊椎ジョイントの追加などを重ねて、1998年に世界初の歩行者ダミーPOLARが完成しました。

そしてPOLARを使った衝突実験から「歩行者傷害軽減ボディ」が生まれ、1998年9月に発売されたHR-Vに適用されます。ダミーの側もその後進化を続けました。センサーとデータ収集装置を結ぶケーブルがダミーの挙動に影響していたため収集装置を内蔵したPOLARII(2000年)、バンパー位置の高いミニバンやSUVの増加を受けて腰部・大腿部をフレキシブル構造に変えたPOLARIII(2008年)です。守る相手が変われば、測る道具も変わるということです。

車体は「柔らかくする」のか「固める」のか — 2つの正解

ここに、社史が自ら書いているトレードオフがあります。1990年代、衝突安全の試験方法は日米と欧州で異なっていました。

地域試験の方法(社史の説明)開発が向かう方向
米国・日本リジットバリア(非変形)への前面フルラップ衝突。シートベルトやエアバッグの評価に適する車体前部をあえて圧壊させてエネルギーを吸収するため、相対的に車体剛性が低い方が有利
欧州デフォーマブルバリア(変形可能)への前面オフセット衝突。乗員の生存空間確保が主眼片側に衝突して入力荷重が大きいため、開発では車体を固める傾向

日本は1994年から前面衝突の法規を適用し、1995年には法規より厳しい条件で評価するJ-NCAPが始まりました。欧州も1998年から統一規格を導入します。社史はこの状況を、車体を柔らかくする方向と固める方向という2つのスタンダードが存在することとなったと表現しています。

ホンダが選んだのは、どちらかに寄せることではなく、両方の特性を高い次元で成立させることでした。そのために「衝突時の乗員減速度制御に関する新概念」を数学的に検証します。考え方は、衝突時のG(加速度)を大きく3段階で制御するというものです。

  1. 初期:乗員にまだ大きなGがかかっていない時点で、車体側で高い減速度を発生させエネルギーを吸収する
  2. 中期:乗員にGがかかり始める段階では車体の減速度を低く抑え、乗員のGの上昇を防ぐ
  3. 後期:一定の減速度を発生させ、キャビンの変形を効率的に防ぐ

衝突の一部始終を一つの硬さで受け止めるのではなく、時間で硬さの役割を切り替える。この考え方を導入した衝突安全ボディを、新しいエアバッグシステムや歩行者傷害軽減ボディと合わせて「ホンダGコントロール技術」と呼び、1998年から車体が大きくなった軽自動車を皮切りに展開していきました。

実験施設が混んでいたので、建てた

やがて、社史の関心は「クルマ同士」の衝突に移ります。車高の高いSUVやミニバンが急増し、ぶつかった小型車が大きなダメージを負うケースが増えていたためです。大きさや重さの違う車同士の共存性を、コンパティビリティと呼びます。

ところが、実験が思うように進みませんでした。当時、国内唯一の実験施設だった日本自動車研究所(JARI)は混み具合によっては数カ月先までテストが行えず、しかも筑波の施設は開発拠点から遠い。社史は「今日やれ、今やれ」がホンダの伝統だと書いています。加えて、遠方では限られた開発者しか実際の衝突を見られないという問題もありました。

ホンダのクルマを開発するすべての技術者に、リアルワールドで起こっている衝突の現実を見てもらいたい

こうして2000年3月、世界初の屋内型全方位衝突実験施設(通称67号棟)が完成します。東京ドームの面積に匹敵する4万平方メートルの実験スペースに、屋根を支える柱が1本もありません。柱があると実験に制約がかかるからです。屋内にしたのは、天候に左右されず夏も冬も実験できるようにするためでした。

この施設で大きさの違う車同士をぶつけてみると、大型車と小型車の衝撃吸収構造がすれ違っていることが分かります。そこで、双方の衝撃吸収構造がかみ合うように部材を配置し、自己保護性の向上と相手車両への攻撃性の低減を両立させた「コンパティビリティ対応ボディ」を、2003年9月発売の軽自動車ライフに初採用しました。相手の車を壊しにくくすることを、自分の車の設計目標に入れたわけです。

1971年のレーダーが、2003年のブレーキになる

いま新車のカタログでおなじみの衝突軽減ブレーキにも、長い前史があります。ホンダが車間距離制御を含むレーダーの研究に着手したのは1971年。その研究の中から、警報を音ではなくアクセルペダルの重さで伝える方法や、緊急時にブレーキを作動させるシステム、アダプティブクルーズコントロール(ACC)の原形が芽生えたと社史は書いています。

社史によれば、20年を超える第1期先進安全自動車(ASV)の成果は1995年のASVの発表で示され、1996年からのASV-2の研究を経て、2003年に世界初の衝突軽減ブレーキ(CMS)が完成します。狙いは、交通死傷事故の約30%を占める追突事故の回避支援と被害軽減でした。ブレーキ単独ではなく、体感警報と乗員拘束を行うE-プリテンショナーシートベルトと組み合わせてインスパイアに搭載されています。

興味深いのは、社史がその直後の社内の空気まで書いていることです。当初は研究所内でも技術として本当に価値があるか判断しかねる雰囲気だったが、発売と同時に自動車専門誌だけでなく経済誌や科学専門誌からも取材があり、他社の追随も明らかになるにつれ、社内の認識が追いつかないほどの先進技術であることが明確になった、と。

その後は、2004年に世界初のインテリジェント・ナイトビジョンシステム、2014年10月にミリ波レーダーと単眼カメラを使うHonda SENSINGを発表(国内では2015年発売のオデッセイから順次拡大)、2021年には自動運転レベル3を実現したHonda SENSING Elite搭載のレジェンドへと続きます。掲げている目標は、2030年に全世界でホンダの二輪車・四輪車が関与する交通事故死者を半減、2050年にゼロです。

まとめ — 「規制を基準とせず」が意味していること

安全装備の歴史は、法規制に追いつく歴史として語られがちです。実際、義務化は普及の最も強い力です。ホンダの社史がおもしろいのは、その順序が何度もひっくり返っている点にあります。

  • 法規のない1975年にエアバッグ開発を始め、義務化が見送られた後も続けて1987年に搭載した
  • 歩行者を守る車をつくるために、まず試験用のダミーをつくった(1998年)
  • 試験を待てないから、実験施設をつくった(2000年)
  • 相手の車への攻撃性を下げることを、自分の車の設計目標にした(2003年)

そして、そのどれもが最初から評価されたわけではありません。エアバッグの研究室は「猫マタギの6研」と呼ばれ、衝突軽減ブレーキは研究所内でも価値を判断しかねられていた。結果が出るまで社内でも評価されなかった期間があったことを、自社の社史がそのまま書き残している — 安全技術の物語として、これはかなり誠実な書き方だと思います。

いま自分の車に付いている装備が、いつ、なぜ生まれたのかを知ると、カタログの1行の見え方が少し変わります。同じように自社で内製することにこだわったスバルのアイサイトの歴史はスバル アイサイトはなぜステレオカメラ一筋なのかで、ホンダが四輪車市場へ参入した1960年代の話はホンダはなぜ8,500回転のトラックで四輪車に参入したのかで扱っています。

出典: 本田技研工業「本田技研工業 75年史」第3章 独創の技術・製品 第5節 安全技術(2026年8月18日確認)。年月・数値・引用はすべて同社史の記載に基づきます。社史には「本文中の「世界初」「日本初」「国産車初」はホンダ調べ」と注記されており、本記事の同表現もこれに従います。搭載車種・機能・目標値は今後変わっていくため、最新の情報はホンダの公式サイトをご確認ください。

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