部品8点のジャイロと、透明の地図シート — 1981年のホンダはクルマに現在地をどう教えたか

いまのカーナビは、電源を入れれば数秒で現在地を指します。地図はディスクやオンラインから来て、自車のマークは道路の上に自動で乗ります。では、衛星測位が民間ではまだ使えず、デジタルの地図も、それを収める記憶媒体も無かった時代に、クルマへ現在地を教えるにはどうすればよかったのでしょうか。
この記事が読むのは、ホンダが公開している「本田技研工業 75年史」の第Ⅲ章 第2節 第4項「ナビゲーションをクルマにも」です。開発から40年以上のちにまとめられた自社の記録であって、当時の発表資料ではありません。当時こう考えていた、と読むのではなく、この会社が自社の歴史をどう書いたかとして読んでください。あわせて、電気・電子分野の学会IEEEの歴史記録(ETHW)で認定の内容を確認しています。
先に結論です
- 方向を知る部品はガスレートジャイロ。社史によれば「ノズルから噴出させたヘリウムガスが直進しようとする慣性力を利用し、方向の変化を感知するもの」で、部品はわずか8点。先に調べた精密なジャイロは「部品点数は200を超え」ていて量産車に載せられなかった
- ただし選ばれたのは精度の高いほうではない。社史は「精度の低さが課題となったが、常に補正することで応用の可能性が見いだされていった。」と書く。精度を捨てて量産性を取り、足りないぶんを補正で埋めた話である
- 思わぬ壁は地図の側にあった。いつも同じ場所でコースから外れる原因を追ううちに、地図は読みやすさのために簡略化されているという常識に行き当たる。専用の地図シートを地図メーカーと共同で作り直した
- 最後の一歩は人間がやっていた。社史は「軌跡と地図の重ね合わせ、すなわち「マップマッチング」は人間が行う必要があったが、地図を開かずとも自車の位置と方位がわかる利便性は絶大なものだった。」と書いている
- 次のデジタル方式が止まった理由も、社史は率直に書いている。使えなかったレーザーディスクが1984年に使えるようになった直後、遅れているアナログ方式を優先する判断が下され、デジタルの開発は「事実上、凍結された。」。その翌年に他社が自動化の可能性を証明してしまう
- そして社史は、この製品を成功譚として締めていない。「ガスレートジャイロによる世界初のカーナビゲーションシステムは、市場で広く受け入れられることはなく、GPSナビの登場によって幕を下ろした。」と自ら書いたうえで、2017年のIEEEによる認定に触れている
クルマは自分の現在地を知らない
この項は、いまでは想像しにくい前提から始まります。社史はドライブ前の風景をこう書いています。
当時は、分厚い地図をドアポケットに常備し、目的地までの道順と目印を頭にたたき込むのがドライブ前の恒例であった。ひとたび道に迷えば、周囲の景色や町名表示板から現在地を推測し、地図と照らし合わせて再び道順と目印を覚えなければならない。
この状態を変えようとしたとき、最初に立ちはだかるのは道案内ではなく現在地です。どこにいるか分からなければ、どちらへ曲がるかも言えません。社史は「しかしGPSの民間運用はまだ先のこと。当時のクルマは、コース誘導に絶対不可欠な自車位置の把握さえできなかったのだ。」と続けます。
ちなみに、いま私たちが使っている衛星測位のほうも、衛星が位置を教えてくれているわけではありません。その仕組みはカーナビが衛星3機では位置を出せない理由で扱っています。この記事は、その衛星が使えなかった時代の話です。
なお、この開発は道案内だけを目的に始まったものではありません。社史によれば1976年、専務(当時)の久米是志は田上勝俊に「四輪車の電装品をやってくれ」と告げ、「他社をキャッチアップして、一歩前へ出ること。それが君の役割だ」と続けています。田上が構築した電装戦略について、社史は「「自動車の知能化」をキーワードに練り上げた戦略には、自動運転までが想定されていた。」と書いています。コース誘導は、その戦略の研究テーマの1つでした。
発端は、戦車の砲身だった
手段のほうは、意外なところから来ています。自衛隊の訓練を見学した久米が、戦車を見て気付いた、と社史は書きます。
凹凸の激しい不整地を走りながらも、砲身は車体の傾きに影響されることなく常に目標をとらえている。
それがジャイロスコープによる制御だと知った久米は、研究所に戻って2つの指示を出しました。ジャイロに関する技術調査と、ジャイロを応用した車載システムの提案の要請です。何に使うかは決まっていません。社史自身が「何を実現できるかわからない研究開発などあっていいのだろうかと思えるが、ホンダでは「良し」とされる。」と書いています。
つまり、順序が逆です。解決したい課題(コース誘導)と、使えそうな部品(ジャイロ)が、別々に走っていて、途中で出会っている。どのくらい別々だったかは、次の節で分かります。
部品200点超から8点へ — 精度ではなく、載せられるほうを選ぶ
久米の話を聞いた田上が最初に思いついた用途は、じつはコース誘導ではありませんでした。社史は「久米の話を聞いた田上は初め、サスペンションになら使えるかもしれないと思い、早速ジャイロを購入し分解してみた。」と書いています。姿勢の変化を検出できるのだから、まず足まわりに使えないかと考えた、という順序です。
ところが分解した結果は、社史によれば「部品点数は200を超え、そのうえ非常に精密である。到底、量産車に載せられるとは考えられなかった。」というものでした。
そこで行き着いたのがガスレートジャイロです。社史の説明はこうです。
ガスレートジャイロとは、ノズルから噴出させたヘリウムガスが直進しようとする慣性力を利用し、方向の変化を感知するものだ。部品はわずか8点と少なく、シンプルさにおいて非常に魅力的であった。精度の低さが課題となったが、常に補正することで応用の可能性が見いだされていった。
ここが、この開発でいちばん分かりやすいトレードオフです。精度の高いほうは載せられず、載せられるほうは精度が低い。ホンダが選んだのは後者で、足りない精度は「常に補正すること」で埋める方針でした。実際、周囲の温度で性能にばらつきが出ると分かると、ジャイロを一定温度に保つ容器を追加しています。
そして、この部品で何をするかが決まったのは、部品が決まったあとでした。社史は「問題は、このガスレートジャイロを使って何を実現するかである。」と書き、そこで研究メンバーから「コース誘導に使えるのではないか」というアイデアがもたらされた、と続けます。用途に合う部品を探したのではなく、載せられる部品に用途が後から付いたという順序です。
もう1つ、量産の壁もありました。ガスレートジャイロはヘリウムガスの純度を高める必要があり、そのために高い真空技術が要ります。商品になるか分からない新技術を引き受けるメーカーはなかなか現れず、田上はヘッドライトの製造で真空技術を持つスタンレー電気の研究所に日参しました。社史には田上の言葉が残っています。
私たちの新しいものを創り出そうという気持ちに、技術屋として共鳴されたんでしょうね。社内の反対の声を押し切って協力していただいた。まさに命の恩人です
社史は、この控えめな振り返りに自分で論評を付け足しています。「技術屋としての共鳴以上に、人間・田上の熱意が所長の心を動かしたのではなかったか。」——会社の正史が、当事者の謙遜をそのまま採らずに書き足している箇所です。
地図のほうが間違っていた
方向が分かり、距離センサーと組み合わせれば、起点からどう動いたかは追えます。あとはその軌跡を地図に重ねればよい——そう思って路上の評価会に進んだところで、開発は思わぬ壁にぶつかります。社史によれば、この評価会は久米と、当時 担当所付だった川本信彦(後の四代目社長)がテスト車に乗り込み、田上が運転して毎回同じコースを試乗する形でした。
毎回、同じ場所で予定のコースから外れる。計器に影響を与える施設があるのではないかと電界強度計まで持ち出しても、原因が分かりません。あらゆる可能性をつぶしたすえ、田上が思い当たったのがこの一言でした。
ひょっとしたら、地図が違っているのかもしれない
地図の販売会社に問い合わせて、社史いわく「初めて、地図の世界では簡略化された表示が常識であることを知った」のです。社史が挙げている理由は、次のとおりです。
例えば、縮尺10万分の1の地図上では、10m幅の道路はわずか0.1mmの線となる。道路が混み合っている地域では線が重なってしまうため、正確性をある程度犠牲にしてシンプルに道路が描かれていたのである。
装置の側をいくら精密にしても、突き合わせる相手が簡略化されていれば合いません。ホンダはシステムに合わせた専用の地図シートを、地図メーカーと共同で新たに製作することにしました。センサーの話に見えて、実は基準の側を作り直したという話です。
最後の一歩は、人間がやっていた
完成した装置の構成は、いまの感覚からするとかなり独特です。社史によれば、地図の表示にはグリーンのCRT(ブラウン管)を用い、その操作部との間に透明の地図シートを滑り込ませる構造でした。車載コンピューターが記憶した走行軌跡をCRTに表示し、その軌跡を地図シートに重ねて自車の位置を知る。目的地は、消せる専用のペンで地図に印を付けて使います。
そして、重ね合わせは自動ではありませんでした。
軌跡と地図の重ね合わせ、すなわち「マップマッチング」は人間が行う必要があったが、地図を開かずとも自車の位置と方位がわかる利便性は絶大なものだった。
この装置は「ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータ」と名付けられ、1981年8月、2代目アコードのディーラーオプションとして発表されました。社史はこれを世界初のカーナビゲーションシステムとしていますが、その根拠に「ホンダ調べ(1981年時点)」という注記が付いていることも、あわせて記しておきます。
発表前の最終評価会の逸話も残っています。要件は、鈴鹿の販売店大会に出席した久米を、この装置を使って東京の自宅まで送り届けること。久米の自宅を知らない田上が、地図シートに記された印だけを頼りに朝6時に鈴鹿を発ち、東京に着いたのは午後7時過ぎでした。クルマを止めた田上の「このあたりだと思うのですが」に、久米が「よし、合格だ。おれの家はあそこだよ」と答えた、と社史は書いています。
制約が解けた1984年に、デジタルは凍結された
課題は残っていました。エンジンが冷えた状態からの始動ではジャイロのウォームアップが要り、しばらく走ってから一度止まって軌跡と地図を合わせる必要があります。地図シート1枚の範囲は限られるので、走るにつれて紙芝居のように手動で差し替え、そのたびに合わせ直すことになります。
次世代ナビの開発は1982年1月に始まります。構想を持っていたのは開発チームの中村之信でした。電子総合研究所(筑波)へ国内留学し、光ファイバージャイロを研究していた中村は、和光研究所と筑波の移動にジャイロケータを使ううちに思い付いた、と社史は書きます。
デジタルマップを光ディスクに入れる、コンピューターで常に軌跡を道路に合わせていく、光ファイバージャイロを使えばウォームアップは不要
マップマッチングを人間からコンピューターへ移す構想です。中村は開発責任者となり、①ジャイロケータを発展させたアナログマップナビ ②デジタルマップによる全自動ナビ ③光ファイバージャイロの研究、の3つが並走しました。
ところが、ここからは足踏みが続きます。デジタルの地図を入れる記憶媒体が、まだ世の中に存在しませんでした(社史は、オーディオ用のCDがようやく標準化されようとしていた時期だと書いています)。先行して進めていたアナログ方式のほうも、共同開発先の事情でレーザーディスク(LD)が使えず、次善の策のマイクロフィルムを使っていたため、地図の自動切り替えが難しい状態でした。
そして1984年、そのLDの共同開発が可能になります。制約のほうが先に解けたわけですが、ここが分かれ道でした。
1984年になってLDの共同開発が可能となったが、開発の遅れを取り戻すためにはデジタルマップナビとの同時開発は不可能であった。開発の精力はアナログマップナビに傾けられ、中村自身がそのLPLになることで、デジタルマップナビの開発は事実上、凍結された。
デジタルが止まったのは、技術や部材が無かったからではありません。使えなかったものが使えるようになった直後に、遅れているほうを取り戻すという判断が下されたからです。しかも凍結されたのは、そのデジタル構想を最初に思い付いた本人が、もう一方の開発責任者に回ったことによってでした。
その翌年です。1985年、米国のETAK社が、地域限定ながらデジタルマップナビを発表します。社史の書き方が印象的です。
デジタルマップとマップマッチングによってナビの自動化が可能なことが証明されてしまった。
ホンダのアナログマップナビは1986年に商品性・生産性・信頼性の確認まで終えていましたが、社史は「手動マップマッチングのシステムに、もはや出番はなかった。」と書き、商品化は中止されました。デジタル方式が再開され、1990年に2代目レジェンドへ搭載されます。回り道について、社史は「積み重ねたノウハウはうそをつかない。」として、デジタルマップ作成技術やマップマッチング技術などの基本特許につながったと結んでいます。
社史が自分で書いた、幕の下ろし方
この項の締めくくりは、称賛から入りません。
ガスレートジャイロによる世界初のカーナビゲーションシステムは、市場で広く受け入れられることはなく、GPSナビの登場によって幕を下ろした。
売れなかったことも、別の技術に取って代わられたことも、自社の記録が自分で書いているのです。そのうえで社史は、完全自立でコース誘導を実現した発想と技術がカーエレクトロニクスの方向性を示し、高度道路交通システム(ITS)の発展にも寄与したとして、2017年のIEEEによる認定に触れます。
ここは正確に書き分けておきます。IEEEの歴史記録(ETHW)でこの認定を確認すると、認定の名称は「Map-Based Automotive Navigation System, 1981」で、説明文も地図を使う自動車用ナビゲーションシステムとして世界初という限定つきの書き方になっています(認定日は2017年3月2日、IEEE Tokyo Section)。社史側の「世界初」がホンダ調べであるのと同じく、「世界初」という言葉は、何と比べての初めてかで意味が変わります。
そして項そのものは、この認定では終わりません。社史は「無から有は生じる。」と置き、本田宗一郎とともにホンダを躍進させた藤澤武夫が1955年の社報で説いた「無から有をうむこと」の重要性——のちに「ないものをつくれ」と意訳された考え方——に触れて項を閉じています。売れなかったと自分で書いたうえで、無かったものを作ったこと自体に意味を置いて終わるのが、この項の締め方です。
1981年のカーナビが持っていたもの・持っていなかったもの
| 要素 | ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータ(1981年) |
|---|---|
| 方向を知る | ガスレートジャイロ(ヘリウムガスの慣性力・部品8点) |
| 距離を知る | 距離センサー(起点からの移動を積算) |
| 位置の求め方 | 外部の電波に頼らない完全自立(衛星は使わない) |
| 地図 | 専用に作り直した透明の地図シート(画面の前に差し込む) |
| 地図と軌跡の重ね合わせ | 人間 |
| 始動時 | コールドスタートではウォームアップが必要 |
| 地図の切り替え | 手動で差し替え |
※ 表は本田技研工業 75年史 第Ⅲ章 第2節 第4項の記述をもとに当サイトが整理したものです。
まとめ
- 衛星測位が民間で使えない時代に現在地を出す方法として、ホンダは方向をヘリウムガスで感知し、距離を積算し、地図は透明のシートで画面に重ねるという組み合わせを選んだ
- えらび方は、よいものを積むことではなく載せられるものを選び、足りないぶんを補正で埋めることだった(部品200点超の精密ジャイロではなく、部品8点で精度の低いほうを採った)
- 途中でぶつかった壁は装置ではなく地図だった。人間が読むための簡略化が、機械には誤差として現れる
- そしてマップマッチングという最後の一歩は人間が担っていた。いまのカーナビが自動でやっている作業に、当時は名前と手順があった
- 次のデジタル方式が止まったのは技術や部材の不足ではなく、使えなかったLDが使えるようになった直後の社内の判断だった。その翌年、他社が自動化の可能性を証明してしまう
- 社史は「市場で広く受け入れられることはなく」と自ら書いたうえで、ITSへの寄与とIEEEの認定に触れ、最後は「無から有は生じる。」という藤澤武夫の考え方で項を閉じている。成功したから記録に残ったのではないという点が、この項のいちばん率直なところかもしれません
いま自車のマークが道路の上を滑らかに動いているとき、その裏では受信機が衛星からの信号で計算を解いています。その計算の中身はカーナビが衛星3機では位置を出せない理由で扱っています。
※ 本記事の引用は、ホンダが公開している「本田技研工業 75年史」第Ⅲ章 第2節 第4項「ナビゲーションをクルマにも」によります。IEEEの認定内容は、IEEEの歴史記録サイト ETHW(Engineering and Technology History Wiki)のIEEE Milestones一覧で確認しました(英語ページのため、本文では日本語の逐語引用をしていません)。









