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1つの工場で1つの機種、が世界の常識だった — 後発のホンダが選んだ「治具を10分で替えるライン」

公開: 2026-09-20 / 更新: 2026-09-20

クルマを知るのイメージイラスト

クルマの話をするとき、私たちはたいてい出来上がったクルマを見ています。エンジンの形式、ボディの寸法、装備の中身。けれどもそれを1台ずつ組み立てる機械のほうを、誰がどう用意したのかを考える機会はあまりありません。ホンダが公開している社史は、その節の冒頭でこう書いています。

どれだけ優れた発想やメカニズムであっても、それを具現化し量産する技術がなければ、世に出ることはない。

この記事が読むのは、ホンダが公開している「本田技研工業 75年史」第Ⅲ章 第6節「生産技術」です。クルマそのものではなく、クルマを作る機械の話が1本の節にまとまっています。開発から数十年のちに会社がまとめた自社の記録であって、当時の発表資料ではありません。この会社が自社の歴史をどう書いたかとして読んでください。なおこの節は2ページ構成で、この記事が中心に読むのは1ページ目(創業期から2001年の溶接ライン改革まで)です。2ページ目には新骨格インナーフレームボディーへの対応や製造DXなど近年の取り組みが入っており、最後にだけ触れます。

先に結論です

  • 四輪に参入したころ、社史によれば「当時の日本を含む世界の主要メーカーは、1つの工場で1つの機種を生産するのが通常であった。」。1機種に専用のラインを組むやり方で、大量生産によるコスト低減という利点があった
  • ホンダはそれを採らなかった。理由として社史が挙げているのは2つで、「競合がひしめく小型乗用車市場への初参入であり、1機種だけで1つの工場をフル稼働させることは難しいと判断した」ことと、「将来的な機種追加を見越した上で」であること
  • 出てきた答えが総合溶接機(GW)。マシンを本体と治具部に分け、本体は全機種共用・治具部は機種専用にした。社史によれば治具交換台車を使って「10分程度での交換が可能になった」
  • ただしこの分け方は車体が最初ではない。1956年のHUM盤が、エンジン部品の加工で「多機種生産・高い精度安定性・短い段取り換え時間」を治具を一体ユニットとして一度に交換することで解いている
  • もうひとつ別の軸がある。のちに二代目社長となる河島喜好(当時は埼玉製作所副所長)の言葉として残る「何にでも使える機械などはつくってくれるな」は、1機種に絞れという意味ではなく市販の汎用機を買うな(自社にしか使えない機械を自分で作れ)という意味である
  • そして2001年、電動ロボットについては自前をやめている。社史は市販品の進化を理由として明記したうえで、「まず、電動ロボットについては、専用機器メーカーのロボットの導入を決めた。」と書く。反転したのは、作るか買うかの軸だけである
  • 節の2ページ目は現役の部長の談話で終わる。「四輪車後発メーカーのハンディを知恵と技術で克服した誇らしい歴史だと思います。」=後発と自分たちでつくることを結び付けているのは、当サイトの読みではなく社史の側である

社史が書く「1つの工場で1つの機種」という常識

ホンダが小型乗用車の市場に本格参入しようとしたのは、1300の開発に合わせてでした。社史はその準備段階で、自社の状態をこう書いています。

それまでのホンダ車は、軽トラック・スポーツカー・ライトバンと各機種とも異なった車体のつくり方をしていた。ホンダはまだ、薄板で構成される車体のつくり方を確立しておらず、車体構造を含めトライ&エラーの連続であった。

そこで世界の自動車メーカーの車体づくりを調べます。分かったのが冒頭に挙げた常識でした。

当時の日本を含む世界の主要メーカーは、1つの工場で1つの機種を生産するのが通常であった。この生産体制は、大量生産によるコスト低減というメリットがある。その一方で、専用ラインのために新機種導入時に多大な設備投資と、長い段取り時間が必要であった。

ここで注意したいのは、社史がこのやり方を否定していないことです。コスト低減という利点を先に書いたうえで、新機種を入れるときの投資と段取り時間を代償として並べています。どちらを選ぶかは、その会社が置かれた状況で決まります。

ホンダの状況は、社史の言葉では次のとおりでした。

これに対しホンダは、競合がひしめく小型乗用車市場への初参入であり、1機種だけで1つの工場をフル稼働させることは難しいと判断した。そのため、将来的な機種追加を見越した上で、セダンやクーペといった違うボディー形状や異機種でも、同じラインで多機種の生産が可能な総合溶接機(General Welder 以下、GW)の開発が必須となった。

理由が2つ並んでいることを、そのまま受け取っておきます。1機種では工場が埋まらないという後発の事情と、この先に機種を増やすつもりだという将来の計画。片方だけを取り出すと、弱かったから仕方なくにも最初から先進的だったにも読めてしまいます。社史はその両方を同じ一文の中に書いています。

治具を替えれば、違うクルマが流れてくる

GWに求められた要件を、社史は箇条書きではなく一文で並べています。

その要件としては、機種の切り替えが容易なこと、新機種の投資が安価なシステムであること、さらに、溶接の自動化や、高精度なボディーが製造できることなどが求められた。また、生産能力は400台/1シフト(8時間)とした。

仕組みの核心は、機械を2つに分けたことです。

そして、GWはマシンを本体と治具部に分割し、本体は全機種共用、治具部は各機種専用とし、治具を変えるだけで異機種への対応を実現。治具交換は、治具交換台車を使用し10分程度での交換が可能になった。

治具というのは、部品を正しい位置に押さえておくための道具です。クルマの形を決めているのは、溶接機の本体ではなく、この押さえ方のほうだと割り切った。だから高価な本体は全機種で使い回し、機種ごとに違う部分だけを台車で入れ替える。10分という数字は、この分け方が実際に成立したことを示す値です。

投入のしかたも社史に書かれています。

新しいGWはN360の生産で用いたスライドGW方式を採用。5ピース(フロア・右サイドパネル・左サイドパネル・ルーフ・ダッシュボード)をラフセット方式でマシン内に投入後、自動で位置決めし、自動溶接を可能とした。併せてルーフパネルとリアピラーの接合を自動スポット溶接とすることでプラズマ溶接とハンダ盛りを廃止した。

クルマのボディは、この5つの大きな板を溶接でつなぐところから始まります。ざっくり置けば機械が位置を合わせてくれる、という手順まで含めて、社史は1300の生産に向けた仕事として記録しています。なおこの方式自体は軽自動車のN360で先に使われていたもので、1300でゼロから生まれたわけではありません。引用の最後にあるハンダ盛りの廃止は、ルーフとサイドの継ぎ目を埋める手作業を機械の溶接で置き換えたという意味で、切り替えの速さとは別に得られたものです。

さらにさかのぼると、治具ごと替えるというこの分け方は、車体より10年以上前にエンジン部品の加工機械で実現しています。社史は1956年のHUM(Honda Universal Machine)盤について、こう書いています。

HUM盤は、箱物加工において、従来は両立が難しいとされていた多機種生産・高い精度安定性・短い段取り換え時間という課題を、多軸のギャングヘッド *1 (刃具)と治具を一体ユニットとして一度に交換することで解決した画期的な機械であった。

*1 のギャングヘッドには、社史が「箱形の交換可能なユニットにドリルなどの切削工具(刃具)を多数配置したもの」と注記を付けています。

多機種生産と、短い段取り換え時間。GWが車体で解こうとしたのと同じ組み合わせの課題を、二輪車のエンジン部品ではすでに解いていたことになります。四輪への参入で新しく発明した考え方というより、すでに社内にあった分け方を、薄板の車体という別の対象へ持ち込んだと読めます(この読み方は当サイトによるものです)。

ただし、機械1台が多機種に対応することと、生産ライン全体が多機種に対応することは別の話です。社史は同じ節の後半で、HUM盤を含むそれまでの積み重ねをこう振り返っています。

それは、単一エンジン機種の多量生産という面では、品質・生産性など、効率の良いシステムとして完成されていた。

しかし、これまでの生産ラインは、機種ごとに計画され設計された専用ラインであることから、新機種立ち上げのたびに機械そのものを新規に製作したり、大改造したりするという時代が長く続いた。

つまりエンジン部品の側は、機械としては多機種に対応できても、ラインとしては機種ごとの専用が長く続いたわけです。この記事がここまで見てきたGWは、車体の溶接ラインを機種で切り替えられるようにした話でした。

「何にでも使える機械などはつくってくれるな」

ここまでは機械のどこを機種ごとに替えるかという話でした。社史にはもうひとつ、別の軸の判断が出てきます。1962年に独立した工機製作所の考え方を、当時の設計課長は次のように語っています。

加工機械・設備づくりの基本的な考え方は、ホンダの生産競争力を高めること。極端に言えば、ホンダでしか使えない加工機械で良いということであった。『何にでも使える機械などはつくってくれるな』と後の二代目社長 河島喜好(当時、埼玉製作所副所長)から言われていた。この言葉の中には、少ない投資で効率が良く、他社にはない機械をつくりたいという考えも含まれていたと思う

ここで言われている「何にでも使える機械」は、どこの会社でも使える汎用の工作機械のことです。つまりこれは、1機種に絞るか多機種に対応させるかという話ではなく、市販の機械を買うか、自社にしか使えない機械を自分でつくるかという別の軸の判断になります。現に同じ工機製作所は、四輪の生産に向けて「一度のワーク固定で多方向から加工を行え、専用機7台分の加工工程をこなすロータリーマシン」を作っており、1台に多くの仕事をまとめる方向へも進んでいます。

整理すると、社史のなかでホンダは2つの別々の問いに答えています。ひとつは機械を買うか、自分で作るか。もうひとつは1機種に合わせるか、多機種に合わせるか。HUM盤もGWも自分でつくるかつ多機種で、この2つは対立していません(この整理は当サイトによるものです)。

なぜ自分で作るのか。その理由も、当時の担当者の言葉として残っています。

当時は、ホンダのものづくりの考え方を理解してくれる一般の工作機械メーカーが少なく、価格や納期も思うようにいかないことが多かった。本田社長は、『加工機械を自らつくらないと競争力のある製品づくりができない』という考えでした

もっとも、自分で作ることがいつも近道だったわけではありません。S600の量産では歯車の精度を高める必要が生じ、高精度加工機の研究も進めていたものの、社史は「極めて難易度が高かったこともあり」量産に間に合わせるためスイスのメーカーへ発注した、と書いています。それも納期が間に合わず、10台限定の技術提携という形に落ち着きました。締めくくりの一文はこうです。

四輪車の生産技術を確立していくには、ノウハウの蓄積が重要であることを思い知らされたのである。

そして、さきほど保留にしたエンジン部品のラインのほうも、1970年代半ばに動きます。二輪車のバリエーション強化が急務になったことを受けて、社史はこう書きます。

新たな生産システムには、従来までの専用機を中心とした生産設備ではなく、多種多様な加工要件に対してフレキシブルに対応できる、高い自由度と柔軟性を持つ設備が求められていた。

こうして開発されたのがモジュールマシンで、社史によれば「ギャングヘッド自動交換装置は最大4機種だったエンジンの混流生産を最大8機種まで可能にする」ところまで進みます。しかも用途は二輪にとどまりませんでした。

1983年以降は四輪車エンジンの生産においても、直列4気筒とV型6気筒の混流生産を実現するなど、そのフレキシビリティを存分に発揮していった。

並べ直すと、機械の単位では1956年のHUM盤がすでに多機種と段取り短縮を両立させ、ライン全体では車体の溶接が1960年代末(GW)、エンジン部品が1970年代半ば以降(モジュールマシン)という順序になります。同じ多機種に対応するでも、どの単位の話かで年代が10年以上ずれます(この整理は当サイトによるものです)。

2001年、電動ロボットは自前をやめた

話は1990年代に飛びます。四輪の生産拠点が世界に広がり、日本ではオデッセイやCR-V、米国ではACURA CLやUSオデッセイ、アジアではシティと、地域ごとに専用の機種を作るようになりました。社史はその結果を、成果ではなく問題として書いています。

しかしその結果、工場ごとに異なるシステムやプロセスでの製造が定着してしまった。このままでは新機種立ち上げのたびに多くの投資が必要となり、コスト競争力の低下を招くなど、危機的な問題に発展すると判断し、生産体制を大きく転換することとなった。

2001年に始まった「’01体改」プロジェクトでの判断のひとつが、自前で進化させてきた電動ロボットをやめることでした。引用のとおり「まず、」と始まる列挙の1つ目で、この節ではロボット自体はむしろ増える方向(「多数のロボットが複数箇所を連続して溶接し」)へ進みます。

まず、電動ロボットについては、専用機器メーカーのロボットの導入を決めた。それまで進化させてきたEG製のロボットは、直流溶接機能も制御できる自前のコントローラーを使い、コンパクトで競争力の高いものであったが、市販の電動ロボットの減速機、モーター、制御などが急速に進化し、コンパクトで信頼性も高くなったことから、採用を決定した。

自社製を「コンパクトで競争力の高いもの」と評価したうえで、それでも外から買う側に替えた、という書き方です。作るか買うかは目的ではなく手段だった、と読めます。1960年代に自分で作ったのも、2001年に買うことにしたのも、社史が挙げる理由は同じく競争力です。そしてこのとき反転したのは、作るか買うかの軸だけで、できあがったラインは「多機種への対応力を大幅に高めた」ものでした。

この改革で組み上がったラインを、社史は「軽少自在」と呼び、1ページ目をこう締めくくっています。

こうして、生産設備における機種ごとの専用部分を極力減らし、多機種への対応力を大幅に高めた、「軽少自在」な生産ラインを構築。この生産ラインはやがて日本国内はもとより、グローバル各拠点へ水平展開され、同一の品質で生産可能なラインを、同時に立ち上げることが可能となったのである。

1機種で工場を埋められないところから始まった多機種対応が、世界のどの工場でも同じ品質で作るための仕組みとして着地した、という順序です。

2ページ目の最後に、「後発」という言葉が出てくる

ここまでは1ページ目の話です。2ページ目には、新骨格インナーフレームボディーへの対応や製造DXといった近年の取り組みが並びます。自分たちで作るのをやめたわけではありません。社史は「ホンダは独自の検査診断機、ラインエンドテスター(Line End Tester 以下、LET)を開発し運用している。」と書き、高精度なボディーづくりでは「寄与度分析エンジン *8 を新たに開発した」とも書いています(*8 の注記は「ホンダが独自に開発した」から始まります)。

ただし、2ページ目の書き方は1ページ目と少し違います。

ホンダは生産分野において「ないものはつくる」の精神で設備・道具づくりを進め、ものづくりを進化させてきた。しかし、近年製品に求められる要求が大きく変わり、単一の設備・道具では解決できない問題・課題が数多く発生している。

そして節の最後は、生産技術統括部 部長の山本創一(2023年3月当時)の談話で締められます。長い談話の冒頭を引きます。ここで、この記事がずっと追ってきた言葉が出てきます。

ホンダの生産技術思想に、『世の中にないなら自分たちでつくる』との言葉があります。創業当初、自動車工場の設備を手がける専業メーカーも少なく、性能や品質的にも満足な物が入手できなかったこともあり、私たちの先輩たちは工場の生産体質に合う設備や金型を自らの手で具現化し、ホンダのものづくりに貢献してきました。四輪車後発メーカーのハンディを知恵と技術で克服した誇らしい歴史だと思います。

後発というハンディと、自分たちでつくること。この2つを結び付けているのは当サイトの読みではなく、社史に載った現役の部長の言葉です。そのうえで同じ談話は、いま求められているのが「『コア技術やコア設備の開発』から、『開発・生産準備・調達・量産・リサイクル』まで一連の工程をつなぎ、生産プロセス全体を改革すること」だと続け、「他社との協業も視野に入れた」体制づくりに触れています。1962年に「何にでも使える機械などはつくってくれるな」と言った会社の節が、協業に触れて終わるわけです。

まとめ

  • 1つの工場で1つの機種、が当時の世界の常識だった。社史はその利点(大量生産によるコスト低減)を先に書き、代償(新機種導入時の投資と段取り時間)を後に書いている
  • ホンダがそれを採らなかった理由として社史が挙げているのは、後発で1機種では工場を埋められないことと、将来の機種追加を見越したことの2つ
  • 答えは、機械を全機種共用の本体と機種専用の治具に分けること。治具交換台車で10分程度、というのがその成果
  • ただし機械の単位で見れば、その分け方は車体が最初ではない。1956年のHUM盤が同じ課題(多機種生産・高い精度安定性・短い段取り換え時間)を治具の一体交換で解いている。ただし社史は、ラインのほうは「機種ごとに計画され設計された専用ライン」の時代が長く続いたとも書く
  • 「ホンダでしか使えない加工機械で良い」は1機種専用という意味ではなく、市販の汎用機を買わないという意味。社史のなかで2つの軸(作るか買うか/1機種か多機種か)は別々に動いている
  • 2001年、自社製の電動ロボットを評価したうえで市販品に替えた。反転したのは、作るか買うかの軸だけで、理由は1960年代と同じく競争力である
  • 2ページ目ではいまも独自開発が続いている(LET・寄与度分析エンジン)。そのうえで節は「他社との協業も視野に入れた」体制づくりに触れて終わる

この記事が扱っていないこと

この記事は、ホンダが公開している「本田技研工業 75年史」第Ⅲ章 第6節「生産技術」だけを読んでいます。そのうち中心に読んだのは1ページ目で、2ページ目は最後の節でしか扱っていません(2ページ目にはインナーフレームボディーの溶接プロセス、製造DX、LET、NSXのオールアルミボディー、HAWモーターなどが入っています)。他社の生産方式との比較はしていません。社史は自社の歴史を書いたもので、当時の他社が実際にどうしていたかは、この資料からは分かりません(「1つの工場で1つの機種」も、社史がそう書いているという事実として扱っています)。

また、2001年以降の生産技術には深く踏み込んでいません。GWや治具交換の所要時間は当時の値で、現在のラインの数字ではありません。二輪車のモジュールマシンについては、四輪と関わる範囲(加工機械が柔軟な設備へ向かったこと、1983年以降に四輪車エンジンの混流生産にも使われたこと)だけを扱い、開発の経緯そのものは追っていません。

クルマそのものの成り立ちに興味があれば、同じ社史から読み解いたホンダ初の四輪車T360や、初代フィットのセンタータンクレイアウトもあわせてどうぞ。

出典: 本田技研工業「本田技研工業 75年史」第Ⅲ章 独創の技術・製品 第6節 生産技術の1ページ目および2ページ目(2026年9月20日に参照)。引用はすべて同節の原文どおりです。2つの軸(作るか買うか/1機種か多機種か)の切り分けと、機械の単位とライン全体を分けた整理は当サイトによるものです。

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