なぜ初代フィットは燃料タンクを前席の下に置いたのか — ホンダ センタータンクレイアウトの物語

クルマの燃料タンクは、たいてい後席の下あたりにあります。ホンダの75年史も、後席の下を燃料タンクの「定位置」と書いています。
2001年6月に発売された初代フィットは、そこを動かしました。燃料タンクを前席の下に置いたのです。ホンダはこれをセンタータンクレイアウトと呼び、社史によれば、この配置は歴代フィットのほかモビリオやグローバルSUV、N-BOX、ヴェゼルへ展開されました。
置き場所を変えた話は、それだけ聞くと配置換えの工夫に聞こえます。けれどホンダの75年史を読むと、この決定の前後で一度は捨てることになっていたものがあり、それを設計で取り返した経緯が書かれています。今回はその1ページを読み解きます。
先に結論
- 出発点は燃料タンクではなく後席の畳み方だった。商品企画部門が出したのは、背もたれを畳むと同時に座面を前へスライドさせて床とフラットにするダイブダウン機構の案
- そのために燃料タンクを後席下からリアタイヤの間へ後退させると、スペアタイヤの置き場所が無くなり、リアディファレンシャルギアのスペースが確保できず4WD車をつくれなくなる
- 行き詰まったレイアウト図で1カ所だけ白く残っていたのが前席の下だった。目標の40Lをどうにか確保できると計算し、決めたのが1998年1月6日午後10時
- 社内の評価会では燃費とコストに批判が集中し、「こんなひどいチーム、見たことないぞ」とまで言われた。流れを変えたのは、燃料タンク出身の先輩技術者の発言だった
- スペアタイヤは、リアサスペンションの構造を変えることで従来通りの位置に戻された。前後重量配分もFF車としてほぼ理想の6対4に収まった
- 社史はこの技術を多くの支持を集める源となったと書き、実績を並べたうえで項を閉じる。ただし最後から2番目に置かれた当事者の言葉は、この技術がお客様に支持されたわけでは決してないと順序を戻している
大事なのは、置き場所を変えたこと自体ではなく、何のために変えたのかが先に決まっていたことです。順番に見ていきます。
スモールカーが減っていた会社に出された宿題
1990年代の終わり、ホンダのスモールカーのラインアップは減っていました。社史はその背景として、クルマが大きく力強い方向へ向かっていたことを挙げ、自社の例をこう書いています。
ホンダにおいても、6代目シビックの中で最もコンパクトな3ドアモデルの全長が初代アコードを超えていた
注記によれば、1995年発売の6代目シビック(3ドア)の全長は4,180mm、1976年発売の初代アコード・ハッチバック CVCC(3ドア SL)の全長は4,105mm。いちばん小さいシビックが、20年前のアコードより長くなっていたということです。
一方で、水面下ではシビックやロゴに代わるエントリーカーとして、欧州Bセグメントに当たるグローバルスモールカーの企画が進んでいました。1995年には欧州委員会が企業別平均CO2排出量の基準を提案し、CAFE(企業平均燃費)基準の議論へ進んでいた時期です。CAFEはメーカーごとに1年間に売った全車の平均が問われる仕組みなので、燃費の良い小さいクルマを売ることは、アコードやCR-Vといった中型車を売り続けるための条件にもなります。
そこへ、当時の社長・川本信彦の言葉が出てきます。
「スペース効率に優れたFF車のパイオニアであるホンダとして、M・M思想を突き詰めたスモールカーをつくれ」(川本)
M・M思想は、マン・マキシマム/メカ・ミニマムの略で、社史によれば人のためのスペースは最大に、メカニズムは最小にという考え方です。ホンダ初の本格的量産軽乗用車N360の開発で提案され、以後の基本として受け継がれてきたもので、四輪進出そのものの経緯はなぜホンダ最初のクルマは軽トラックだったのか?8,500回転のT360と、閉じかけた扉の物語で扱っています。
欧州で見た、想像を超える使われ方
1997年10月、グローバルスモールの量産開発を任されたのが松本宜之です。初代CR-Vの開発責任者代行を務めた人物で、「スモール」と聞いてコスト低減ばかりを求められる開発になるのではないかという不安が頭をよぎった、と社史は書いています。
開発責任者となった松本は、先行開発チームの発足後、欧州へ飛びます。イギリス、フランス、ドイツなど5カ国から6カ国。そこで見たものが具体的です。
- イタリアの若者は、後席にぎゅうぎゅう詰めで食事に出掛けていく
- 週末のドイツでは、ショッピングカート数台分の商品を荷室いっぱいに詰め込む
- フランスでは書棚やソファを当たり前のように積み込む
- イギリスのワインディングでは、高齢の方が運転する古いスモールカーの速さに追い付けなかった
社史はこれを荷室への要望も走りへの要求も、チームの想像を超えていたと表現しています。そして松本の言葉が続きます。
「タフな市場で傑出した存在となるためには、欧州車のまねをしていてはダメだということに早くから気付いていました。欧州車に追い付き追い越せという考え方から離れて、日本のホンダにしかできないことを突き詰める。たとえそれが欧州の人々の価値観とずれていたとしても、そこから、世界に通じる『唯一無二の価値』が生まれてくると信じていたからです」(松本)
最初の案は「リアタイヤの間」だった
ここで話が燃料タンクへ向かいます。ただし出発点は燃料タンクではありません。商品企画部門から上がってきたのは、後席を畳んで広い荷室をつくるという提案でした。
社史によれば、当時も後席が収納できるスモールカーは珍しくありませんでした。問題は畳んだ後です。操作が複雑なうえ、収納しても荷室の床が高くなってしまい、容量は減り、積み降ろしはやりにくい。使いやすい機構とは言えませんでした。
商品企画部門の案は、そこに手を入れます。燃料タンクを、定位置である後席の下からリアタイヤの間へ後退させて、後席を低く収める。背もたれを畳むと同時に座面を前方へスライドさせ、背もたれの背面が荷室の床とフラットになるまで潜り込ませる——ダイブダウン機構です。
この段階で作られたのは、あくまで内装を検討するためのモックアップでした。それでも、と社史は書きます。後席を畳めば広大な空間が現れ、座面を跳ね上げれば観葉植物まで積めるほど背の高い空間ができる。量産車として成立させられる裏付けはどこにもないのに、居合わせた誰もが同じ場面を思い描いた、と。
百の言葉より、1つの現物が持つ説得力は強い。
ただし、この案には代償が付いていました。社史は課題を2つ挙げています。
当時はほとんどのクルマが荷室床下にスペアタイヤを搭載しており、モックアップ通りにリアタイヤの間に燃料タンクを移した場合、スペアタイヤを他の場所に移さなければならない。また、リアディファレンシャルギアのスペースが確保できず4WD車をつくることもできない。
後席が広くなる代わりに、スペアタイヤの居場所と4WDが消える。ここが、この物語でいちばん分かりやすいトレードオフです。しかもスペアタイヤを前席の下へ移す案も検討されましたが、そちらはスペースが足りませんでした。
1カ所だけ白く残っていた
初代フィットの開発責任者代行を務めた郷田末雄の記憶として、社史はこう記録しています。
「松本さんが床に図面を広げ鉛筆で真っ黒にしていたのをよく覚えています」(郷田)
シャシー設計の基本プロセスにのっとって考えるほど、燃料タンクは居場所を失っていきます。解決の糸口が見えないまま1997年が暮れ、年明け初日、松本はシャシー設計の開発責任者・奥康徳とレイアウトの検討を再開しました。
書いては消しを繰り返した5分の1のレイアウト図は、すっかり黒ずんでいました。その中に、1カ所だけ白く浮かんで見えるところがあった——前席の下です。スペアタイヤを置くほどの広さはないが、燃料タンクなら入りそうに見える。絵を描き入れてざっくり容量を計算すると、目標の40Lをどうにか確保できる。
社史は決断の時刻まで残しています。1998年1月6日午後10時。この場面は、軽自動車の背が高くなっていった経緯を追ったなぜ日本の軽は「背の高い箱」ばかりになったのか?ワゴンRからN-BOXへ、上に伸びた30年の物語でも、N-BOXへつながる技術の出発点として触れました。今回はその先、決めたあとに何が起きたかを見ます。
「こんなひどいチーム、見たことないぞ」
社内の反応を、社史は散々なものであったと書いています。コストをはじめとするデータを突き付けられ、考え直すよう何度も説得された。それに対して松本は、不安を覚え始めたチームに「初めからできないことを前提にするのではなく、つくり上げるつもりで考えてくれ」と伝えます。
最大の危機は最初の評価会でした。パッケージやシートアレンジ、デザインを自信満々に説明したのに、評価委員の関心は燃費とコストに集中します。
「こんなに大きくして燃費が出るのか」、「センタータンクとかいうが、いったいいくらかかると思っているんだ」、そして最後には、「こんなひどいチーム、見たことないぞ」とまで言われてしまった。
流れを変えたのは、別の評価会での一言でした。厳しい指摘が続く中で出た発言です。
「構造を変えるくらいのことをやらなければ世界には勝てない。コストばかり攻めても、ホンダらしい商品は生まれないだろう」
社史は、この発言の主を評価を通せば評価委員として最も苦労するであろう燃料タンク出身の先輩技術者だったと書き添えています。自分の担当領域がいちばん面倒を被る側の人が、通せと言った——という書き方です。
捨てずに済んだもの、書かれていないもの
ここからが設計の巻き返しです。社史はシャシー領域の対応をこう書いています。
リアサスペンションをH型トーションビーム式とし、ダンパーとスプリングを別体配置することで、スペアタイヤを従来通りの位置に収めながら低くフラットな荷室を実現した。
最初の案で消えるはずだったスペアタイヤは、元の場所に戻ってきました。心配された前後重量配分も、新開発の軽量エンジンなどが効いて、FF車にとってほぼ理想といえる6対4に収まっています。
ここで一点、はっきりさせておきます。最初の案の課題として挙がっていたもう一方、4WDについては、この項に続きが書かれていません。項の全文を「4WD」「四輪駆動」「ディファレンシャル」の3語で検索すると、4WDは先ほど引用した1カ所のみ、ディファレンシャルも同じ1カ所のみ、四輪駆動は自販連のSUV区分を説明した注記の1件だけで、その後どうなったかを述べた記述はありません。解決したとも、諦めたとも読み取れないので、ここでは書かないでおきます。
ほかに社史が挙げているのは、コンパクトな新エンジンi-DSI(2点位相差点火)と、前面衝突の衝撃を短いストロークで吸収するアーチ型サイドフレームです。この2つが、超ショートノーズのワンモーションフォルムというデザインの狙いを可能にしました。外観デザインは和光研究所とホンダR&Dヨーロッパでコンペを繰り返し、最終的に日本的なオリジナリティーが評価されて和光研究所案に決まっています。
数字は、あとから付いてきた
量産までの道のりも平坦ではありません。当初は欧州をメインターゲットに3ドア中心の計画でしたが、市場動向を受けて5ドアに一本化され、チームは対応に追われます。燃費目標も引き上げられました。
| 車種 | 燃費 |
|---|---|
| 6代目シビック(EL・1.3Lクラス) | 18.4km/L |
| ロゴ(B、L) | 19.8km/L |
| 当初のフィットの目標 | 22.0km/L前後 |
| 発売時のフィット | 23.0km/L |
出典: ホンダ75年史 第Ⅲ章第2節第7項。同項が1つの文の中で並べている数字です。フィットの23.0km/Lには注記があり、条件は「FF(15インチアルミホイール装着車を除く)、10・15モード走行燃料消費率(国土交通省審査値)」です。現在のWLTCモードとは測定方法が違うため今のカタログ値と直接は比べられない、という点は当サイトの補足です。
コストは、取引先の協力で成立しました。最初の説明会に100社ほどを招いてプレゼンテーションをしたものの、売れる保証のない新型車に手を上げる会社はありません。2回目も反応なし。追い込まれた3回目、同じように説明したあとで「今日は、今までと違います」と言って1分の1モックアップのベールを外すと、会場の空気が変わり、協力したいという申し出が届き始めた——と社史は書いています。ここでも、決め手になったのは説明ではなく現物でした。
2001年6月に日本で発売されたフィットは、欧州・アジア大洋州・南米・中国・北米へ販売を広げ、6年後の2007年6月に世界累計販売200万台を達成します(欧州地域とアジア大洋州地域での販売名称はジャズ)。日本では発売から6年6カ月、78カ月目で累計販売台数100万台に到達し、当時のホンダ最速記録となりました(2代目を含む数字で、2007年12月に達成)。
支持されたのは技術ではない、と当事者は言う
社史は、初代フィットに圧倒的なスペース効率をもたらしたこの配置が、歴代フィットはもちろん7人乗りコンパクトミニバンのモビリオやグローバルSUVなどに展開され、多くの支持を集める源となったと書いています。実績を挙げて紹介しているのは次の2台です。
- N-BOX(2011年12月発売)— 2015年から2022年にかけて8年連続で軽四輪車新車販売台数第1位。累計100万台を5年(60カ月目)、200万台を9年5カ月(114カ月目)で達成し、フィットの最速記録を塗り替えた(いずれもN-BOX、N-BOX +、N-BOX SLASHを合わせたN-BOXシリーズとしての数字)
- ヴェゼル(2013年12月発売)— 2014年から2016年にかけて3年連続で国内SUV新車販売台数第1位。2020年11月時点で世界累計384万台(ヴェゼル、HR-V、XR-Vを合わせたヴェゼルシリーズの数字)
この2台を紹介したあと、社史は常識を覆し、課題を乗り越えて実現した技術は、色あせることなく進化を続け、多くのお客様に喜びをもたらしている。と書きます。技術への評価は、はっきり肯定の側にあります。
続けて、実現を左右したものは思いつくか、つかないかと実行するか、しないかだと整理し、この2つは対等ではないと念を押します。思いつくことはほとんどのエンジニアができるが、本当の勝負は困難を前にして「実行する」を選べるかどうかだ、と。
そのうえで、項の最後から2番目に置かれているのが、シャシー設計を担当した奥康徳の言葉です。
「画期的なセンタータンクレイアウトですが、燃料タンクをフロントシートの下に持ってくるという技術がお客様に支持されたわけでは決してないのだ、ということを忘れてはいけません。すべての出発点は、かつてないスモールカーの価値をお客様に提供したいという1点に尽きる。そして、それを実現するための手段の1つがセンタータンクレイアウトなのです」(奥)
社史自身が支持を集める源となったと書いた技術について、その開発の当事者が、支持されたのは技術ではないと言っている。否定ではなく、順序の戻しです。価値が先にあって、配置換えはその手段だった、と。
そして項の最後は、開発責任者だった松本宜之の振り返りで閉じられます。
「無謀で高い志とともに、お客様や世の中にとっての価値をまっすぐに問い続けた結果、常識を覆すイノベーションを起こすことができた。ホンダのチャレンジの歴史を紡ぐことができた、と思っています」(松本)
謙虚な整理のあとに、誇りの語りが置かれている。手段だと言い切った直後に、その手段が起こしたことを誇る——この二重構造のまま、項は終わります。
まとめ
- 初代フィットのセンタータンクレイアウトは、燃料タンクを前席の下へ移した配置。決めたのは1998年1月6日午後10時で、決め手は行き詰まったレイアウト図でそこだけが白く残っていたこと
- 出発点は燃料タンクではなく後席を畳んで床とフラットにするという商品企画部門の案。最初の案では燃料タンクをリアタイヤの間へ後退させ、その代償としてスペアタイヤの居場所とリアディファレンシャルギアのスペースが失われるはずだった
- 前席下へ移したうえで、リアサスペンションをH型トーションビーム式としダンパーとスプリングを別体配置することで、スペアタイヤは従来通りの位置に戻った。前後重量配分もFF車としてほぼ理想の6対4
- 社内では燃費とコストへの批判が集中し、流れを変えたのは燃料タンク出身の先輩技術者の一言だった。取引先を動かしたのは3回目の説明会で外した1分の1モックアップ
- 社史はこの技術を多くの支持を集める源となったと書き、実績と自賛を並べて項を閉じる。そのなかで当事者の言葉だけが、技術は手段であって支持された理由ではないと順序を戻している
ホンダが同じ社史の別の項で、ハイブリッドの方式選択について遠回りを自分で書いている話は二度先を越されながら「世界最高効率」を目標に掲げるまで — ホンダのハイブリッドが通った回り道にまとめています。軽自動車の室内高がどうやって伸びていったのかはなぜ日本の軽は「背の高い箱」ばかりになったのか?ワゴンRからN-BOXへ、上に伸びた30年の物語で、規格という枠の側から追いました。
この記事が扱っていないこと: 初代フィットのグレード構成・価格・現行モデルの仕様には触れていません(参照した社史の項に価格の記載はありません)。センタータンクレイアウトの安全性能上の評価や、他社の類似レイアウトとの比較も扱っていません。
出典: 本田技研工業「本田技研工業 75年史」第Ⅲ章 独創の技術・製品 第2節 四輪車 第7項「センタータンクレイアウト」(2026年9月6日に閲覧)。発言・引用はすべて同項の原文どおりで、(松本)(郷田)(奥)の表記も原文に従っています。燃費・販売台数の注記条件も同項の注記によります。トレードオフという整理の仕方と、「4WD」の語の出現数を数えた箇所は当サイトによる整理です。









