1952年、乗用車は外国メーカーと組んで作るものだった — トヨタが純国産を選んだ理由

いま新車を買うとき、そのクルマがどこの技術で作られたのかを気にする人はほとんどいないはずです。国産車なら国産の技術で作られている — そう考えるのが普通でしょう。
ところが1950年代の初めには、それは当たり前ではありませんでした。日本のメーカーが乗用車を作る方法として、当時もっとも現実的だったのは、外国メーカーと提携して向こうの車を組み立てることだったからです。トヨタ自動車が公開している「トヨタ自動車75年史」には、その時期に各社が結んだ提携が実名で並んでいます。そしてトヨタ自工(トヨタ自動車工業)は、そこに加わりませんでした。
この記事では、本格的乗用車トヨペット・クラウンが登場するまでにトヨタが何を選び、何を捨てたのかを、75年史の原文と数字だけで追いかけます。
1952年前後、各社は一斉に外国メーカーと組んだ
75年史は、当時の状況をこう書いています。
当時、国内の自動車業界では、乗用車の生産に関して外国メーカーとの技術提携が相次いで行われた。三菱重工業が米国のカイザー・フレーザー社と提携し、1951年6月から乗用車「ヘンリーJ」の組立生産を開始したのを皮切りに、1952年7月に日野ヂーゼル工業(現・日野自動車)がフランスのルノー公団と乗用車「ルノー4CV」の製造・販売に関する提携を、同年12月に日産自動車がイギリスのオースチン社と乗用車「オースチンA40」に関する技術提携を、1953年2月にはいすゞ自動車がイギリスのルーツ社と乗用車「ヒルマン・ミンクス」に関する技術提携を結んだ。
2年足らずのあいだに4社です。相手はアメリカ、フランス、イギリスと分かれていますが、やろうとしていることは同じで、すでに完成している外国の乗用車を日本で作るという道でした。設計は済んでいて、売れる実績もある。自力で一から設計するより速く、失敗する確率も低い。合理的な判断です。
そのなかで、75年史は次の一文を置いています。
このような状況のなかで、トヨタ自工は純国産技術による開発を表明したのである。ジャーナリズムの評価は、トヨタ自工を時流に乗り遅れた田舎会社とする向きがあった半面、外国技術の導入に走る企業への批判的な見方も存在するなど、国産乗用車の行方が各方面の関心を集めた。
自社の社史に、自社が田舎会社と評されたと書き残しているわけです。当時この選択が明らかに正解と見えていたわけではない、ということがここから分かります。
自主開発は当然のことだった。ただし75年史がまず着手したと書くのは、値段と品質保証の話
では、なぜ独自開発だったのか。75年史は、その理由そのものを短く言い切っています。
トヨタ自工にとって、豊田佐吉、喜一郎以来の自助努力による研究と創造の信念から、乗用車を自主開発するのは当然のことであった。
創業以来の信念からすれば自主開発は当然だった、という書き方です。ここだけ読むと、通説どおりの、技術のプライドの話に見えます。ところが同じ節で、では具体的にまず何に取り組んだのかを説明する段になると、話は値段のほうへ向かいます。ここがこの記事でいちばん意外な部分です。
75年史がトヨペット・クラウンの節でまず説明しているのは、技術力への自負ではありません。それまでトヨタ自工が売っていた乗用車の作り方と売り方の問題です。
トヨタ自工では、トヨペット乗用車として、SA型、SD型、SF型系、SH・RH型系を販売してきたが、それらはトヨタ自工製のシャシーに、ボデー・メーカーが設計・製造したボデーを架装したものであった。トヨペットの名を冠しているものの、このような販売形態をとっている限り、本格的な乗用車を提供することは難しかった。そこでまず、自社で製造した製品に対して、販売価格と品質保証に責任をもてる体制の確立に取り組んだ。
当時のトヨタの乗用車は、トヨタが作った土台(シャシー)に、別の会社が設計・製造した車体を載せて完成させるものでした。75年史によれば、1947年10月から1952年にかけて215台が製造されたSA型乗用車も、この方式です。
この作り方だと、クルマ1台の中身をトヨタが最後まで決めきれません。そして値段も決めきれない。75年史は、石田退三社長が参議院運輸委員会に参考人として出席した際の発言として、国産乗用車の小売価格は販売店が自由に設定し、トヨタ自工は責任をもって定価提示ができない状況であったと述べたことを記録しています。
作った会社が定価を示せない。つまり、買う人から見れば、同じクルマなのに店によって値段が違う。品質について問い合わせる先もはっきりしない。75年史はこの状況を示したうえで、そこでまず、自社で製造した製品に対して、販売価格と品質保証に責任をもてる体制の確立に取り組んだと書いています。信念としての自主開発が当然だったこととは別に、最初に手を付けたと書かれているのはこちらでした。
75年史は、その是正がすでに商用車で始まっていたことも書いています。
これを是正するため、トヨタ自工では、1951年8月発売のBX型トラックから、自社設計による全鋼製完成キャブ付きシャシーで出荷していた(キャブはトヨタ車体製)。完成車として出荷することにより、トヨタ自工が定価の設定や品質保証の責任を担う体制を目指したのである。
国会で社長が語ったこと
この判断がどれくらいの覚悟だったのかは、石田社長が1952年7月26日の第13回国会参議院運輸委員会で述べた発言に表れています。75年史はその要旨を載せており、次の部分が含まれます。
それでも私どもの技術が追いつかんようなことなら、私も今日のお叱りに従って、あえて国産車をやめるというくらいの気構えは持っておるのでありますが、この3月からはいろいろな面で一応考えて改良はいたしておるつもりであります
国産車をやめる、と社長が国会で言っています。同じ発言のなかには、次のような一節もあります。
実は今日はもっと力み返って真向から喧嘩を売りたいような気持を持っておりますが、何と言っても四面楚歌でありますし、私どもが悪いのだから、今日は頭を下げて帰ろうと思っておりますが、必ず近い将来において、或る程度よくやったと言われるような時代が来ると思って私どもは実は楽しみにいたしております
四面楚歌、という語が本人の口から出ています。純国産の開発は、堂々と選ばれた王道ではなく、批判を浴びながら選ばれた道だった — 社史に残された発言はそう読めます。
なお、この場でやり玉に挙がっていたのは価格そのものでもありました。石田社長は同じ発言のなかで、販売会社と販売店の手数料を一応15万円に抑えていると説明したうえで、車が足りないために販売店がそれに輪をかけて余分に儲けているという噂を聞いた、と述べています。値段の話と、独自開発の話は、地続きでした。
原価を下げる手として挙がっていたのが、プレス成形だった
独自開発を選んだ以上、外国メーカーの完成した設計は使えません。石田社長は同じ発言のなかで資金繰りへの不安にも触れており、その流れで原価を下げる手として挙げているのがボデーのプレス化でした。
又一つのボデーのプレス化によって相当額引下げもできるであろうということを期待しております
車体を1枚ずつ手作業で叩き出すのではなく、プレスで成形したパネルで構成する。75年史は、新型乗用車の第2次試作モデルが完成していた1952年7月の時点で、ボデーをプレス成形パネルで構成する方針が固まっていたと書いています。ただし、と断ったうえで、車両本体の開発より前にエンジンの開発が進んでいたことも記しています。
ここでトレードオフの形が見えてきます。外国の設計を借りれば、開発の時間と失敗の危険を減らせる代わりに、車体の作り方までは自分で決められない。自分で設計すれば、時間も批判も背負う代わりに、車体をプレス化して原価を下げるところまで自分で決められる。前者は完成品を早く手に入れる道、後者は作り方そのものを手に入れる道です。
なお、開発の開始時期について75年史は、1952年3月に急逝した豊田喜一郎の指示に基づき、トヨタ自工では1952年1月から本格的な乗用車の開発を開始していた、と記しています。国会での発言より前に、現場はすでに動いていたことになります。
その後、市場のどこが伸びたのか
結果として、日本の自動車市場でどこが伸びたのか。75年史は、1951年と1956年の生産実績を比べた記述を残しています。
1951年と1956年との比較で生産実績を見ると、生産台数全体では3.26倍の伸びを示しており、なかでも小型乗用車、小型トラックの伸びが著しかった(表1-43)。これに対して、大型トラックはほとんど横ばいで、生産台数に占める比率を63%から20%へと大幅に後退させた。
5年で全体が3.26倍になる一方、それまで生産の柱だった大型トラックの比率は63%から20%へ落ちています。大型トラックの会社から、小型車(小型乗用車と小型トラック)の会社へ主役が移っていく途中の数字です。純国産乗用車の開発が始まったのは、まさにこの変化の入口でした。
2代目については、75年史に手がかりがあります。1962年9月に誕生した新型クラウンRS40型を、RS型を7年9カ月ぶりに全面改良したものと説明しているのです。この記述から逆算すると、初代RS型の登場は1954年12月ごろということになります(逆算は当サイトによるもので、75年史がその日付を明記しているわけではありません)。1952年1月の開発開始から、およそ3年です。
そして75年史は、RS40型のねらいを乗り心地と操縦性の向上、振動と騒音の低減とし、「より斬新で、より大きく、より高性能で、より豪華に」というキャッチフレーズを紹介しています。田舎会社と評された時期から10年で、社史の語り口はこう変わりました。
この話が、いまのクルマ選びに残していること
初代クラウンの逸話は、性能の話としてはあまり語られません。当時の外国車のほうが、多くの面で進んでいたはずだからです。それでもこの判断が語り継がれるのは、速く手に入る完成品より、遅くても自分で決められる作り方を選んだという一点にあります。
そして、社史が自主開発の理由として置いているのは創業以来の信念であるのに、具体的にまず着手したと書かれているのは、買う人に対して定価と品質を自社で保証できる体制のほうだった — このねじれが面白いところです。しかも75年史は、国会での石田社長の発言を、決意を控えめに表明したものと評しています。堂々と技術を誇る話としては書かれていません。
いま新車を買うと、メーカー希望小売価格が公表され、保証の窓口がはっきりしています。当たり前すぎて意識しませんが、それは最初からあったものではありませんでした。
まとめ
- 1951年6月の三菱重工業によるヘンリーJの組立生産開始を皮切りに、1953年2月のいすゞ自動車まで、4社が相次いで外国メーカーとの提携・組立生産に動いた(トヨタ自動車75年史の記載)。この4社が提携に動いたのに対し、トヨタ自工は純国産技術による開発を表明した
- 75年史は、当時のジャーナリズムにトヨタ自工を時流に乗り遅れた田舎会社とする向きがあったと記録している。当時から正解と見えていた選択ではなかった
- 独自開発の動機として75年史が最初に説明しているのは技術力ではなく、他社製の車体を載せる作り方では、販売価格と品質保証に自社で責任を持てなかったこと
- 石田退三社長は1952年7月の参議院運輸委員会で、技術が追いつかないなら国産車をやめるくらいの気構えだと述べる一方、ボデーのプレス化による相当額の引き下げに期待していると語った
- 1951年と1956年の比較では生産台数全体が3.26倍になり、大型トラックの比率は63%から20%へ後退した。大型トラック中心から小型車中心へ主役が移る時期と重なっている
出典: トヨタ自動車株式会社「トヨタ自動車75年史」第1部 第2章 第8節「本格的乗用車トヨペット・クラウンの登場」(第1項 ボデーメーカーによる小型乗用車のボデー架装/第3項 国産技術による独自の開発/第4項 小型車の需要増大)および第2部 第1章 第1節 第3項「大衆乗用車パブリカと新型クラウンRS40型の生産、販売」。石田退三社長の発言は、75年史が第13回国会参議院運輸委員会会議録第36号(1952年7月26日)から引いている要旨です。提携各社の社名・時期、生産実績の数値はいずれも75年史の記載によります。初代RS型の登場時期を1954年12月ごろとしたのは、75年史のRS40型に関する記述からの逆算で、当サイトによる計算です。









