なぜ日産はコンロッドを捨てたのか?VCターボ、圧縮比を自在にするまでの20年の物語

2016年8月、日産自動車が出した1本のニュースリリースに、こんな一文があります。「20年以上もの期間をかけて開発した新型4気筒2リッターターボエンジンは、内燃機関の技術革新をなし遂げました」。ひとつのエンジンに、20年以上。クルマの世代なら3〜4世代ぶんに相当する時間です。何がそれほど難しかったのか。このエンジン「VCターボ」が動かそうとしたのが、圧縮比 — エンジンが実用化されてこのかた、量産エンジンでは走行中に変えることのできなかった数字だったからです。この記事では、日産が公開している一次資料(ニュースリリース・技術解説ページ)から、VCターボの物語を読み解きます。
圧縮比 — 設計者が最初に決めて、二度と変えられなかった数字
圧縮比とは、シリンダーに吸い込んだ混合気(空気と燃料)を、ピストンでどれだけ押し縮めるかの比率です。日産の技術解説ページは、圧縮比を「燃費とパワーを決める最重要パラメータ」と位置づけています。強く押し縮めてから燃やすほど、同じ燃料から多くの仕事を取り出せる — つまり圧縮比が高いほどエンジンは効率的になります。ところが押し縮めすぎると、混合気の温度が上がり、点火プラグが火を着ける前に勝手に燃え出してしまう。これが異常燃焼、いわゆるノッキングです。だから圧縮比には限界があります。
やっかいなのは、この限界が走り方によって動くことです。技術ページの説明によれば、巡航時のように吸気量が少ないときには限界圧縮比は高く、加速時のように吸気量が多いときには低くなります。特にターボで過給した混合気を吸い込んでいる状況では、限界はさらに低くなる。つまり、理想の圧縮比は、いま巡航しているのか、全開加速しているのかで変わるのです。
ところが従来のエンジンでは、この数字は選べません。技術ページにはこうあります。「従来のエンジンは、ピストンとクランクシャフトが直接コンロッドでつながる構造のため、圧縮比を変えることはできません」。ピストンの動く範囲は部品の長さの組み合わせで幾何学的に決まってしまうからです。結果として設計者は、全開・過給時でもノッキングしない安全側の値と、巡航燃費に効く高い値のあいだで、たったひとつの妥協点を選んで図面に書き込むことになります。以後、そのエンジンは何百万台造られても、その一点を背負って生きていく。圧縮比とは、エンジン設計者が開発の最初に一度だけ決める数字だったのです。
答えは、コンロッドを捨てることだった
VCターボの答えは大胆でした。ピストンとクランクシャフトを直結する基本部品・コンロッドをやめて、複数のリンク(棒状の部品)を組み合わせたマルチリンク機構に置き換えたのです。技術ページによれば、コンロッドに替えてマルチリンク機構でクランクシャフトを回転させる構造とし、リンクの端点をアクチュエータで動かせるようにすることで、ピストンとクランクシャフトの間の距離そのものを変えられるようにしました。
圧縮比を変えるときの動きを、技術ページの説明に沿って順に追うと次のようになります。
- ハーモニックドライブ(産業用ロボットの関節などで知られる精密減速機構)がアクチュエータアームを動かす
- アクチュエータアームがコントロールシャフトを回転させる
- コントロールシャフトの回転がLリンクを動かし、マルチリンクの角度を変える
- マルチリンクの角度が変わると、シリンダー内のピストンストロークの上下位置が動き、圧縮比が変わる
これで圧縮比は8:1(高性能側)から14:1(高効率側)まで無段階に、走行中でも自在に動かせるようになりました。アクセル操作に応じて、制御が常に最適な圧縮比を選び続けます。巡航では高圧縮で燃費を稼ぎ、全開加速では圧縮比を下げてターボの過給を目一杯かける。設計者がどちらかを選んで捨てるしかなかった二つの顔を、1台のエンジンが状況に応じて使い分けるのです。低負荷時には電動VTC(バルブタイミング可変機構)でアトキンソンサイクル運転に切り替えてポンピングロスを減らし、過給側は高効率ワイドレンジターボと電動ウェイストゲートで素早く立ち上げる — 圧縮比の自在さを軸に、燃費側とパワー側の技術が両輪で組み合わされています。
研究開始は1998年 — 量産までに20年
仕組みを言葉にすると数行ですが、これを量産するまでの道のりが長い戦いでした。技術ページには「VCターボは1998年より研究を開始」とあります。リンク機構による可変圧縮比方式の開発に始まり、「リンク配置の最適化、高度な解析技術による部品形状の最適化、高精度熱処理などの工法革新を経て、世界初の量産化を実現しました」。部品が増え、力のかかる関節が増えるほど、強度・摩擦・精度・コストの壁は高くなります。リンク1本の形、熱処理の精度といった地道な積み上げが、アイデアと量産のあいだの20年を埋めていきました。
可変圧縮比というアイデア自体は古くから知られていましたが、「世界初の量産型」という日産の発表を裏返せば、それまで世界のどのメーカーも量産にはたどり着けていなかった、ということです。搭載車が市場に出た2018年、国内の自動車メディアがこれを「夢の技術」と報じたのは、そのためです。
コンロッドを捨てたら、振動まで消えた
マルチリンク化には、思わぬ副産物がありました。技術ページによれば、リンク配置を最適化した結果、ピストンが上下する際のアッパーリンクの角度変化が小さく、ピストンはより直立したままスムーズに下降します。これはシリンダー壁面との摩擦を減らして燃費に効くと同時に、ピストンの上下動が上死点側と下死点側で対称になり、振動を抑える効果を生みました。
この点は外部からも評価されています。2019年12月、VCターボの開発は一般財団法人機械振興協会主催の第54回機械振興賞で「機械振興協会会長賞」を受賞しました。受賞を伝える日産のリリースは、独自のクランク機構でエンジン振動の抑制を実現したことに加え、「振動抑制に必要であったバランスシャフトの廃止を可能とした」と説明しています。バランスシャフトとは、従来の4気筒エンジンが振動を打ち消すために回していた専用の重り軸のこと。部品を足して抑え込んでいた振動が、機構そのものの幾何学で消えたので、部品を引くことができた、というわけです。リリースはさらに「エンジン高を抑えつつ、1本の偏心シャフトで全ての気筒を制御することにより、高効率と高性能を両立しました」と続けています。圧縮比のために作り直した骨格が、振動・摩擦・搭載性まで一緒に良くしてしまった — 設計をやり直す勇気への、ご褒美のような結果です。
2017年、ロサンゼルス — 量産可変圧縮比エンジン、市販車へ
2016年8月の開発発表リリースは、このエンジンを高級車ブランド「インフィニティ」のモデルに搭載すると予告し、詳細を翌月開幕のパリモーターショーで公開するとしていました。そして2017年11月、ロサンゼルスオートショーで、VCターボを初めて積む量産モデルとして新型「QX50」が世界初公開されます。発表リリースはこのエンジンを「2.0リッターターボチャージャー付きガソリンエンジンのパワーと、4気筒ディーゼルエンジンの特徴である力強いトルクと高い効率性を併せ持つエンジンです」と紹介しました。QX50は2018年春に米国で発売され(報道による)、1998年の研究開始から20年目に、世界初の量産可変圧縮比エンジンが公道を走り始めました。
同じ2018年の3月には、ニューヨークモーターショーで新型「アルティマ」が世界初公開され、VCターボの搭載が拡大します。リリースの言葉を借りれば「V6ガソリンエンジンと並ぶ動力性能を発揮しながら、4気筒エンジンと同等の低燃費を実現します」。米国仕様の当時発表値で最大出力248馬力、最大トルク273lb-ft(プレミアムガソリン使用時)。6気筒の代わりを4気筒が務められるのは、圧縮比とターボを状況ごとに使い分けられるからです。なおこのリリースには「本「VCターボ」エンジンは日本で生産されます」という一文があります。搭載車は北米向けでも、心臓部を造っていたのは日本でした。
2022年、日本へ — ただし、タイヤは回さない
VCターボを積んだQX50もアルティマも、日本では販売されないモデルでした。日本のドライバーの前にこのエンジンが現れるのは2022年7月、フルモデルチェンジした4代目「エクストレイル」でのことです。しかも、意外な役どころで — タイヤを回すエンジンとしてではなく、発電専用エンジンとしての登場でした。
新型エクストレイルは、エンジンで発電しモーターだけでタイヤを駆動するハイブリッド「e-POWER」の第2世代を搭載し、その発電用エンジンにVCターボ(1.5L・型式KR15DDT)を採用しました。リリースはこれを「力強さと静粛性を実現した世界初の「e‑POWER」×「VCターボ」」と呼び、「常用域から加速時までエンジン回転数を抑え、圧倒的な静粛性を実現します」と説明しています。
発電しかしないエンジンに、なぜ可変圧縮比が要るのか。日産のe-POWER第2世代の技術ページが答えを書いています。高い走行性能が求められるSUVでは、高負荷のシーンで「圧縮比を下げて過給圧を高め、1.5Lという排気量でありながら、大排気量エンジン並みの大きなトルクを発生することができます」。トルクが大きければ低い回転数のまま多くの電気を作れる — 同ページの言葉では「低回転でも高い発電能力を発揮」する。エンジンの回転を上げずに済むということは、そのまま静かさになります。燃費が欲しいときは高圧縮、電気が一気に欲しいときは低圧縮+過給。パワーか燃費かを選ばなくていいエンジンは、タイヤを回さなくなっても価値が変わらなかったのです。
20年かけた技術の、二度目の人生
VCターボの物語は、少し切ない見方もできます。1998年に研究が始まったころ、エンジンはクルマの主役でした。20年かけて理想のエンジンにたどり着いた2018年、世界はすでに電動化へ舵を切りつつありました。しかし日産はこの技術を棚に仕舞いませんでした。エンジンがタイヤを回さない時代(e-POWERの物語)が来ても、状況に応じて性格を変えられるエンジンは、発電機の理想形でもあった。圧縮比を自在にするという内燃機関の究極の夢は、エンジンの役割が変わった後も、そのまま生き続けています。
VCターボの年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1998年 | 可変圧縮比の研究を開始(日産技術ページによる) |
| 2016年8月 | 世界初の量産型可変圧縮比エンジン「VCターボ」開発を発表(当時の同社発表)。翌月のパリモーターショーで詳細公開を予告 |
| 2017年11月 | ロサンゼルスオートショーで、VCターボ初搭載の量産モデル・インフィニティ新型「QX50」を世界初公開 |
| 2018年 | QX50が春に米国で発売(報道による)。3月には新型「アルティマ」がNYモーターショーで世界初公開(248馬力・米国仕様当時発表値) |
| 2019年12月 | VCターボの開発が第54回機械振興賞「機械振興協会会長賞」を受賞 |
| 2022年7月 | 4代目「エクストレイル」発表(7月25日発売)。世界初の「e-POWER」×「VCターボ」で、発電用エンジンとして日本に登場 |
まとめ
- 圧縮比はエンジンの燃費とパワーを決める最重要パラメータだが、従来はピストンとクランクをコンロッドが直結する構造のため、設計時に一点を選んだら二度と変えられなかった
- VCターボはコンロッドをマルチリンク機構に置き換え、圧縮比を8:1から14:1まで無段階に可変にした量産型世界初のエンジン(当時の日産発表)。研究開始は1998年、量産車搭載は2018年 — 20年がかりの開発だった
- リンク配置の最適化でピストンが直立したまま上下する構造になり、摩擦低減と振動抑制まで実現。従来必要だったバランスシャフトを廃止できた
- 日本には2022年の4代目エクストレイルで、e-POWERの発電専用エンジンという意外な役どころで登場。圧縮比を使い分けて低回転で大トルクを出せる性質が、静かな発電機として生きた
エンジンの二律背反を機構の発明で破った先輩としては、カムを切り替えて低速の扱いやすさと高回転パワーを両立したホンダVTECの物語があります。世界の誰も量産できなかったエンジンを執念で形にし、のちに発電用として蘇らせた道のりはマツダ ロータリー60年の物語と重なります。エンジンがタイヤを回すのをやめた設計の全体像は日産e-POWERの物語、ハイブリッド3方式の仕組みの整理はハイブリッドの仕組みの記事をどうぞ。そして同じノッキングの壁に、トヨタは圧縮比を動かすのではなく、理想の燃焼を先に定義して機械を従わせるという対照的な答えを出しました — Dynamic Force Engineの物語です。
※本記事の数値・年月日・引用は、日産自動車公式サイトのニュースリリース(2016年8月15日付、2017年11月29日付、2018年3月29日付、2019年12月23日付、2022年7月20日付)および技術ライブラリー「VCターボエンジン」「e-POWER 第2世代」の一次資料に基づく2026年7月時点の内容です。「世界初」はいずれも当時の日産の発表によります。QX50の米国発売時期(2018年春)と、搭載車の市場投入期(2018年)の「夢の技術」という評は自動車メディア各社の報道によります。最大出力248馬力・最大トルク273lb-ftは米国仕様・プレミアムガソリン使用時の当時発表値です。現在の各車の仕様・販売状況・エンジンラインアップは日産の公式サイトをご確認ください。









